きょうもあしたも猫日和 中編
毛が逆立つ、尻尾が揺れる、喉の奥から出てくるのは威嚇するような唸り声。4本の足全てから爪を出す、いつでも相手の腕をそれで切り裂くことが出来るようにだ。奴が1歩近づいてくる、俺は1歩後退する。じりじりとその距離が詰められていき、とうとうその手が俺を掴もうという刹那、後ろ足で地面を思い切り蹴ってそいつの足の間を駆け抜けた。
「この……っ!」
「ねえ霧生くん、やっぱり僕が変わるよ」
「いや、これは俺がボスに頼まれた仕事だ、何としてもやり遂げてみせる」
「でもそんな怖い顔してちゃ、いつまで経っても寄ってこないと思うけどな。ねぇジャック?」
パオロがにこりと俺に向かって笑いかけてくる。因みに、ジャックとは猫である俺の名前だ。「JJに似ている」と言った瑠夏が、俺の名前をもじってつけたらしい。
あの日拾われて以来、夢だと思っていたこの姿はその後も戻ることはなく、そのまますっかりKCの世話になってしまっている。とはいっても、元々俺はKCの人間だったのだから今更世話になるも何も無いのだが。
……確かに親の仇を見るように睨みつけてる男の元よりは、ニコニコと笑いかけてくれる男の元の方が身の安全は確保できそうだと思う。そうでなくとも俺は霧生とそりが合わない、こいつに身を任せるなどということは死んでも御免だ。人間だろうと猫だろうとそこは譲れない。
特に今から奴が俺にしようとしていることはあまりにも屈辱的すぎる行為だ。たとえ瑠夏に頼まれた事をやり遂げられず、こいつの顔に泥を塗るはめになろうとも全力で逃げてみせる。
「おい、どうしてそう嫌がる!首輪をつけるだけだろう!」
それが嫌だと言っているんだ!と言ったつもりだったが、喉からは1つも言葉として聞き取れない低い鳴き声。それでも俺の拒絶を感じ取ったらしい霧生は眉間の皺を深くする。
「霧生くん、怒鳴ったら逆効果だよ」
「そ、そうか…………くっ」
「本当に霧生くんとジャックは仲が悪いよね。僕らにはそうでもないし、ボスには結構懐いてるのに。何でだろ?」
別に瑠夏に懐いているつもりはない、が、あいつは触り方がうまいのかその腕に抱かれて撫でられると逃げる気がすっかり失せてしまう。あまつさえ喉の奥からゴロゴロと甘えた声が出てしまうので、懐いていると誤解されても仕方ないだろう。決して瑠夏に甘えているわけでも懐いているわけでもない、本当だ。
「……俺が知るか、こいつに聞け」
「そうだね。ねえジャック、何で霧生くんが嫌いなの?……へーそっかそっか、うんうん、わかるよ」
「……な、何かわかったのか?」
「あはは、やだなあわかる訳ないじゃない」
「…………」
「そんな怖い顔しないでよ。でも居るんだよね、何故か猫に嫌われちゃう人って。霧生くんが犬タイプだからかな?」
「知るか!」
こいつらはいつも楽しそうだなと、半ば呆れながら2人の会話を聞いていた。そうしていると部屋のドアが開き、入ってきた人影に俺の体はいきなり持ち上げられる。緊張で体を固くするが、人間のときよりずっと鋭敏になった嗅覚はすぐその人物の匂いを嗅ぎとった。その人物は俺の緊張を解すように撫でると、そのまま腕の中へと抱き込まれる。
「ジャック、いい子にしてたかい?」
「ボ、ボス!」
「ボス、随分早いお戻りですね」
「ははっ、ジャックに会いたくて急いで仕事を片付けてきたんだ」
いつもそうしてくれればと思いっ切り顔に書いてあるにも関わらず口に出さないのは流石パオロだ。俺を抱く瑠夏はやたらと上機嫌なので、そこに水を差すまいと思ったのだろう。隣では焦った様子の霧生が口をパクパクさせている、お前は魚かと、言葉が喋れれば突っ込んでやるところだ。
「す、すみませんボス、まだ頼まれていた仕事が……」
「あぁ、やっぱり難しかったか。これを機にジャックと霧生が仲良くなれればと思ったんだけど」
「仲、良く……」
「まあ無理だったのなら仕方ないさ、霧生、それを貸してくれ」
大して気にした様子もなく瑠夏は霧生から首輪を受け取ると、それをカチャリと俺の首につける。手際が良すぎたため抵抗する暇もなかった。
首に少しの違和感。これで俺は瑠夏のものになったということなのだろうかなんて、馬鹿みたいな考えがよぎった。何を考えているんだか、そもそもとっくに俺は……瑠夏のもの、だっただろう。
「流石ボス、霧生くんなんて触らせてももらえなかったんですよ」
「ぐっ……」
「本当にキミ達は仲が悪いなあ、うちに来たばかりの頃のJJとキミの関係を見ているようだよ」
「JJ……そういえばボス、彼はいつ戻るんでしたっけ?」
「早ければ今日の夜にでも戻るはずだけれど、どうだろうな。仕事中はあまり連絡が取れないから心配だよ」
ここには居ない、いや実際には居るのだが、俺を思ってか瑠夏が眉を下げる。
俺はあの事故の少し前から、瑠夏の依頼でKCを離れていた。仕事自体はとある人物を見張るといった地味なものだったが、念のため2週間程時間をかける予定だったため人間の俺がこの世のどこにも居ないという事実は今日までバレずに済んでいる。あとは見張っていた人物が、俺が猫になって以降妙な動きをしていないことを祈るばかりだ。
俺の無事を気にする瑠夏の様子に、不満そうな表情をした霧生が口を開く。
「どうせ、何時ものようにふらっと戻ってくるでしょう。ボスがそこまで心を砕く必要はありません」
「うんうん、霧生はJJを信頼しているんだな」
「違っ……違います!いえ奴の腕は確かだと思いますが、しかし……!」
「霧生くんって、面白いくらい墓穴掘るのがうまいよね」
「パオロ!」
俺は瑠夏の腕の中でふぅと息をついて目を瞑る、包まれている体温が心地よくて正直眠気が限界だったのだ。まだ騒いでいる3人の声がどんどんと遠くなる、眠りに落ちる寸前、いつか聞いた虎の声が聞こえてきた。
そろそろ起きろ、ジャップ・ジュニア、と。