瑠夏×JJ
【joint owner】
夜明け前が一番暗いんだよ、と、そう語った男は俺を組み敷きながら微笑んだ。涙で滲んだ視界の向こうに見えた空は、星のひとつも見えず暗い色で塗り潰されている。今こうして一人空を見上げながら、ふいにそんな事を思い出した。
吐き出した息は白く溶け、空気は肌をひりつかせる。長く見ていたつもりもなかったが、いつの間にか空は起き出した朝日の色と混じり、紫、いや、ピンクだろうか、やわらかい印象に変わっていた。綺麗だと感じて、こんな綺麗な景色ならばあの男と……瑠夏と見たかったと、そんな感傷的な事を考える。振り切るように視線を正面へと戻し、コートの前を合わせながら歩みを早めた。
この美しい空の下で、瑠夏は俺以外の奴をその腕に抱いているのだろうか。その思考を振り切ることは、すっかり昇りきった朝日に照らされた屋敷の門を潜るまで、とうとう叶わなかった。
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【悪夢の招く先】
これは夢だと、そうはっきりわかっていても指の一本動かすことすら叶わず、俺は見覚えのあるプレハブの床で仰向けに寝そべっていた。天井を見上げる事しか出来ないまま唯一動く瞼を何度も動かすが、視界の端に映る窓の向こう、目まぐるしく移り変わる空を見送る事しか出来ない。
朝焼け、真昼の影、夕闇、夜は暗さに慣れてしまえば、薄汚れた天井は意外にもはっきりと見えた。薄明、また、朝焼け。しかしそれを見送る内に、流れが逆であることに気付く。夕闇が白く溶け、高くなった陽が影を落とす、朝日が眠り、夜が目覚める。時間が巻き戻っていると知った所で、死体のように寝そべっていることしか出来ない俺には意味がないのだが。
ふ、と、朝焼けに照らされていた顔に影が落ちる、景色を見送る事にも飽いて閉じていた瞼を開けば、見覚えのある金色が瞳に写り込んできた。俺を深い青の瞳で覗き込み嬉しそうに口角を上げたその男は、自らの舌で濡らした唇を俺のそれに触れさせた。湿った感触と残る熱、そして名前を思い出す暇も無く、男は姿を消してしまう。
宵闇、紅色、月の光が射す夜もあれば、星すら眠ったままの暗闇もあった。今度は開いたままの瞳に、優しげに目尻を下げた人が映る。グレーの髪が額に触れ、まるで慈しむように唇同士を触れさせてきた。そうしてまた、名を思い出すより早く消えてしまう。
意識がゆっくりとぼやけていく感覚に、ようやく夢が覚め始めたのだとわかった。薄明の中で、目覚めに向かう中で、また俺の上に影を落とす。今までと同じように俺を覗き込むその褐色の肌の男には、
――顔が、なかった。
歪に残る傷が近付いてくるのが恐ろしく、瞼を閉じるがどうしてか閉じた視界の向こうがはっきりと見えてしまう。朝日に、夕日に何度も焼かれたせいで瞼が溶けてしまったのだろうか、ギョロギョロと忙しなく動く眼球の制御がきかない。恐怖に呑まれそうになった瞬間、遠くから俺を呼ぶ声。
JJ、JJと耳に響くそれは、その名は、この目の前に居る男がつけた……
「JJ?大丈夫かい?」
そのはっきりとした声に、ようやく夢から覚めたことを知る。瑠夏、と微睡みと恐怖の残滓が混ざり合った声で呼び掛ければ、がっしりとした腕が俺を包み込んでくれた。肌同士が触れ合う感覚に、ゆっくりと悪夢が消えていく。瑠夏は多くを聞かず、ただ安心させるように俺の頭や背中を優しく撫でてくれた。
――あれは、なんだったのか。考えたくはないはずなのに、思考は勝手に夢を追っていく。愛されたかった相手だ、とまだ残っていた夢が言う、その手を取りたかった相手だと、無機質に告げる。
ならこれは最低の悪夢だったと、手に入れた熱に身を預けながら毒づいた。
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【眠りへの約束】
眠りから覚めた瞬間、ひやりと寒さを感じる。暖をとるため身体を丸めようとしたところで、今の状況を思い出した。俺の背にゆるく回されている腕が、無意識にか強く抱き締めてくる。もぞもぞと動いていた俺を逃がすまいとしたのだろうか、照れくささと熱の誘惑の間で暫し揺れてから、どうせ誰も見ていないと開き直り瑠夏の胸に擦り寄った。
ぬくもりに目を瞑れば、眠りとは違う安らぎが心を満たす。
「ん……JJ?」
まだ夢の中に居るような声が俺を呼ぶ、見上げればまた閉じようとしている瞼をなんとか開きながら、綺麗な青が俺を覗いていた。
「起こしたか?まだ起きる時間には早いんだ、すまない」
「いや……いいよ、たまには……早く起きる、さ……」
明らかに無理をしている様子の瑠夏に、俺はその腕の中で苦笑する。それを見てか、瑠夏は少し乱暴に頭を撫でてきた。止めろと文句をつければ、背中に回していた手を俺の顎に添え、言葉を奪うように口付けてくる。
「ん…っ」
角度を変えながら何度も何度も、触れるだけのキスを繰り返す。唇から離れた後も頬、額、鼻先と顔中にキスの雨が降ってきて、気付けば隣で横になっていたはずの瑠夏は俺へと覆い被さるような体勢になっていた。
「……流石に、そこまでの時間はないぞ?」
「ふふ、残念。キミから擦り寄ってくるなんて珍しいから、沢山可愛がってあげようと思ったんだけど」
その瑠夏の言葉で、一気に顔へ熱が上がってくる。どうやら気付かれていたらしい、瑠夏は先程ようやく起きたように思っていたが、もしかするとそれより前から意識はあったのかもしれない。
微睡みの中で俺の行動を感じ、眠りより触れ合いを望んでくれたことは……嬉しい、が、わざわざ言わなくてもいいだろう、人が悪いにも程がある。そんな悪態も、見上げた先にある瑠夏のとろけそうな笑みの前では勢いを無くし消えていく。
「照れてるのかい?本当にキミは可愛いなぁ」
「……朝から、よく口が回るな」
「憎まれ口も、ボクには愛の言葉にしか聞こえないよ」
恥ずかしい台詞をさらりと言ってのけた瑠夏は、また俺の唇にキスを落とすと「続きは、夜にね」と言って身体を起こした。……本当に、朝からよく口が回るものだ。緩みそうな口元を引き締め、脱ぎ散らかしてある服に手をかける。まだ今日は始まったばかりだ。
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【egoist】
「キミは、遠野梓が好きだったんだろう?」
捕食者の瞳をギラつかせながらそう問い掛けてきた男に、俺は手にあったワイングラスをテーブルに置くと「アンタも大概しつこいな」と溜息混じりに答えた。そんなわけないだろうと続ければいつもなら軽く流される筈の軽口、しかし男の目は鋭く細められ、会話を打ち切ることを許さない。
残っていた液体をぐいと喉の奥へ流し込んだ瑠夏は、空になったグラスを同じようにテーブルへ置くと、自由になった両手で俺をソファーへと横向きに押し倒した。そして耳に軽く唇を触れさせ、また問いを繰り返す。
「言い方を変えようか。キミは遠野梓を……愛していた?」
あるわけがない、そう口を開こうとすれば咎めるように耳を強く噛まれる、痛みに言葉は引っ込んでしまい、横目に睨み付ければどうしてか男は愉しげに笑った。
「よく考えて答えろ、JJ。嘘を吐けば、ここに一生消えない傷が残る事になるよ?」
耳に傷くらい、そう思ってすぐ、そのままの意味ではないことに気付く。それは証だ、瑠夏へ不実な答えを返したことを、俺に思い出させるための。
「……わから、ない」
無理矢理絞り出すような声で、瑠夏の問い掛けへと答えを出す。
――5年は、決して短くない。それだけの歳月を共にして何の情も湧かない程には、俺も人を諦めていなかった。果たしてそれが愛情かと問われれば……迷いなく否とは言えないだろう。
「じゃあ、今答えを出すんだ。キミは中途半端も割り切った関係も苦手なんだろう?ボクを求めてくれた時に、そう言っていたじゃないか」
身体を密着させ、まるで情事の時のような声色で囁く瑠夏。俺に何をさせたいのか、少しずつその輪郭が見えてくる。
「……アンタの、言う通り、だ」
「JJ、それじゃあわからないよ」
「っ……俺は梓を……求めていた」
苦々しく告げた言葉を受けて、瑠夏は「よく出来ました」と囁いてから耳に口付けを落としてきた。襲ってきた甘い痺れに身を任せようとしても、しかし貪欲なこの男は俺へ更に言葉を求めてくる。
「じゃあ、今キミが愛しているのは?」
答えの決まりきった問い掛けだ、俺は首を捻り瑠夏と視線を合わせると、望み通りの言葉を口にした。
「アンタしか居ないだろう、瑠夏」
この上なく嬉しそうに微笑んだ男は俺の顎へ手を添えると、少し無理な体勢のまま噛み付くように口付けてくる。「愛しているよ、JJ」と熱っぽく告げてきたその唇を、身体の向きを変え今度は自分から塞いだ。気は済んだかと聞くより早く潜り込んできた手の動きに、俺はいつものようにただ翻弄されていった。
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【おいしいごはん】
「今日中に片付けてしまいたい書類があって、手が離せないんだ。悪いけれど軽く食べれるもの……あぁ、おにぎりがいいな。作ってもらって、部屋まで持ってきてくれるかい?」
そう瑠夏から電話があり、ちょうど昼御飯を済ませていた俺はコックにおにぎりと飲み物を頼み、トレイにのせたそれを持ち瑠夏の部屋の前へと来ていた。片手を空けノックをしてから名を告げれば、「入ってくれ」と部屋の主から許可が出る。
ドアを開け中へと足を踏み入れると、奥の机に腰掛けている瑠夏が俺へと微笑みかけてきた。
「悪かったねJJ、わざわざありがとう」
「いや、別に……大したことじゃない」
傍へと歩み寄り机の空いたスペースにおにぎりと飲み物ののったトレイを置く。……いらぬ気遣いかとも思ったが、瑠夏の好きなエスプレッソ味のチョコも包みのまま2、3個トレイの隅に置いてあった。それに気付いたのか、瑠夏は更に表情を緩ませ俺の頭をくしゃりと撫でた。
「……でも、困ったな」
「どうしたんだ?」
「さっき、ちょっとインクで手を汚してしまってね」
「あぁ、ラップか何か包めるものを持ってくるべきだったな……待っていてくれ、今」
「仕方ないから、キミが食べさせてくれるかい」
「……は?」
にこにこと微笑んでいる表情を見るに、冗談では無さそうだ。ラップくらい取ってくるのにさして時間はかからない、もしくは瑠夏が手を洗ってくれば済む話だろう。だが机に積まれている書類の量を見てしまうと押し問答をして煩わせるのも気が引けた。はぁ、と溜息をひとつ吐いてから、おにぎりを手に持つとそのまま瑠夏の口元へと運ぶ。ありがとう、と無邪気に笑い食べ始めた瑠夏を見ているとそう悪い気はしない。
この状況が誰かに見られたとなれば話は別だが、トレイに残っているチョコのように甘ったるく穏やかな時間を過ごせる事は、俺の知る数少ない幸福だ。
皿に乗っていたおにぎりを全て平らげた瑠夏は、ご馳走さまと満足そうに俺へと笑いかけた。これ以上邪魔になってはいけないと下がろうとすれば、「ちょっと待った」と瑠夏が俺の腕を取る。
「……?何だ?」
「手に、米粒がついてる」
「っ……!?」
そのまま俺の手を自分の方へと引き寄せ、指先をぺろりと舐めてくる瑠夏に慌てて腕を引こうとするが、掴まれている手はびくともしない。舌はゆっくりと指の股を舐め掌へと移り、そこについていた米粒を掬うとようやく離れていく。そして自分の上へと覆い被せるようにして俺の身体を抱き寄せると、唇に軽い口付けが落とされた。
「ん……改めて、ご馳走さま、JJ」
「なっ……アンタは……っ!」
文句のひとつでも言ってやろうと口を開いた矢先、部屋の扉がノックされる。俺が焦って身体を離すと同時に、瑠夏は入室の許可を出した。まったく食えない男だと、先程より熱くなってしまった体温を感じながら思う。
「ボス、失礼します……あれ、JJ。君も来てたんだ」
「……まぁな」
「もしかして、お邪魔でしたか?」
「そうだよパオロ、折角いいところだったのに。なぁJJ?」
「ばっ……!知るかっ!」
揃って俺をからかい始めた2人から逃げるように、部屋を出ようとドアの前へと立つ。扉を開け廊下へ1歩を踏み出した、その時、
「あれ?ボス、それ今月中に終わらせてくれれば大丈夫な書類ですよね?」
「……は?」
思わず間抜けな声を出し振り向いた俺へと返ってきたのは、悪びれもせず微笑んでいる男のウィンクだった。
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【I'm hungry】
生温い愛の言葉には飽いていた。それでは足りないと知っていた。
「上の空だね、JJ」
行為の合間にも瑠夏は言葉を交わしたがる。飢えた獣のように肉の一欠片も残さず貪り尽くし、それでもまだまだ足りないと言う、あまりに貪欲過ぎる男。
「気のせいだろ」
「じゃあ今何を考えていたか、ボクの目を見て言えるかい?」
一瞬の揺らぎすら許さず全てを求めてくるくせに、全てを与えてはくれない。どうしてそれで満足出来るというのだろう、飢えているのはアンタだけではないのに。腕を伸ばし、瑠夏を引き寄せ深く口付ける。入り込んできた舌に噛み付いてやれば、ぼやける程近くに痛みに歪む顔が映った。
「っ……」
「俺はアンタの事だけ考えてるよ、瑠夏」
今俺に触れる手も唇も、明日は別の誰かのものだ。ならせめて言葉を交わせないよう舌を噛み切ってやろうか、そんな馬鹿げた妄想が離れない。
「まだ、足りない?」
「あぁ……全然足りない」
飢えも渇きも、抑える方法を知らない。渇望して止まないものなら奪い取るだけだ、満たされるまで求めるだけだ。例え、死に追い付かれる方が早くとも。
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【wonder to oneself】
もう止めろ、そう発しようとした唇を強引に塞がれる。舌を絡めながら自分を組み敷いている男の表情を窺って得たものは、まだこの行為を止める気はないのだという確信だけだ。諦めて身体の力を抜くと、快楽の波はすぐに戻ってきた。
それに溺れることが出来れば、この男と居るのはずっと楽だろうと思う。だがどこか遠くにある冷めた思考は、俺に呼吸をしろと迫ってくる。だから何度も自分に言い聞かせた、この行為に意味はないのだと。
今この瞬間俺を愛しているだろう男は、明日は別の誰かにその愛を捧げる事が出来る。ならこれは、何もされていないこととそう変わりはしないだろう。
「あっ……!瑠夏……っ」
自分よりずっと高い体温にしがみつく、そうすると瑠夏はいつだって抱き締め返してくれた。諦めたフリをしながらも、錯覚していたいのかもしれない。本物ではなくても、刹那的な感情でも、俺を抱く腕に確かな想いがあるのだと。
そこに何もなかったとしても人は人を抱けるのだと、欲を満たすために人を壊せるのだと、俺は嫌という程知っているのだから。感傷だ、ただこの男にはそうであって欲しくないというだけの、生温い希望。例え瑠夏が俺の知る最悪と同じだとして、勝手な理想を求めたのだから傷付くのはお門違いだ。
血を流したまま、その感情が死ぬのを待つしかない。
「JJ、ちゃんとボクを見ろ」
「見てる、だろ……っ」
「ボクを通して誰かを見るな、キミを抱いているのは、ボクだろう?」
勘違いをしてしまいそうになる程に甘く激しい言葉は、俺の思考を鈍らせる。これで満足してしまえ、形ばかりの執着に浸ってそれに酔っていられればいい。静かに腐っていくように、身には噎せかえりそうな甘い香りを纏わせて。
――出来るわけがない、と、そう囁いたのは瑠夏の腕の中の自分で、逃げることは許されないのだと、思い知った。
(しかしそれが自分ならば、本当はとっくに知っていたのだ)
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【にゃんにゃんにゃん】2月22日
「JJ、にゃん、って言ってみて」
「は?何でだ」
瑠夏の突拍子もない発言にはそれなりに慣れたつもりでいたが、今回の発言は本気でわけがわからない。あぁやっぱりちょっと待って、と床に置いてある袋から何かを取り出すと突然それを俺の頭に付けた。嫌な予感しかしない。
「おい瑠夏、何をつけたんだ」
「思った通り可愛いなぁ、自分でも見てみるかい?」
そうして鏡の前に立たされると、そこには2つの三角を頭に生やした男が一人。怖気が走りとっさに頭へ腕を伸ばしたが後ろに立っていた瑠夏に両手とも掴まれてしまいその妙な装飾品を外す事が出来なかった。
「離せ……っ!」
「だーめ。あ、そうだ尻尾もあるんだよ。2種類あるんだけどどっちがいい?」
「2種類……?」
「服の上から付けるタイプと……もう1つは実践した方が早いかな」
瑠夏は楽しげに口角を上げると、俺を軽々と抱き上げ寝室に向かって歩き出す。いつの間にか先程の袋を腕に下げ、袋の口からは何かごちゃごちゃと玩具のようなものが入っているのが見えた。嫌な予感はさらに膨らむ。
「る、瑠夏、にゃんと言うから、その……下ろしてくれないか」
「下ろしてあげるさ、ベッドの上にね。そこで、沢山鳴いてもらうよ」
ベッドへ俺を寝かせた覆い被さってきた瑠夏の表情は、すっかり獰猛な獣のそれだ。俺よりアンタがこの耳をつけるべきじゃないのかと、しかし状況が悪化しそうな気がして俺はその言葉を飲み込んだ。
今から何をされるのか、出来れば知りたくはないが……楽しそうに袋の中身を漁っているこの男の手で、すぐにでも教えられることになるのだろう。
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マスター×JJ
【あたたかなもの】
「JJ、残してもいいですからね。無理に食べて具合が悪くなっては本末転倒です」
「……あぁ」
そう言って、お椀によそわれた雑炊をレンゲで掬う。いつもは食欲をそそるマスターの料理、しかし残念ながら今はその効果も薄いようだ。冷ます必要が無いようにか適度な温度のそれを口に含み、軽く咀嚼してから喉の奥へと流す。
少し辛いが、身体の内側に温かさがじわりと染みていく感覚に、これなら何とかいけそうだと2口目、3口目と口に運んでいたが、その内やはり「食べたい」という気持ちが萎んでいってしまった。
「……」
「眉間に皺が寄ってますよ、JJ」
カウンターの向こうでグラスを拭いていたマスターは、苦笑しながら俺の傍へと歩いてくる。そしてお椀の縁に乗せるようにして動きを止めていたレンゲを俺の手からそっと奪うと、にっこりと微笑んだ。
「……何だ?」
「手を動かすのも辛そうですから。はい、あーんして下さい」
「は?いやマスター、それは」
「いいじゃないですか、たまにはこういうのも」
何故か少し嬉しそうに言いながら俺の唇へとレンゲを触れさせてくるマスター、その笑みをみると逆らう気も起きず、仕方なくノロノロと口を開く。ゆっくりと流れ込んでくるものを咀嚼し飲み込む、不思議と先程までのようにそれを辛いと思わなかった。頃合いを見たマスターがまた口元へ雑炊を運んで来たのを、今度は抵抗なく口に含む。
「温かいものは、まだ食べやすいでしょう?」
「あぁ……そうだな、マスター」
それはきっと俺にとって、雑炊の事ではないのだが。口にするのは野暮だと思い、お椀が空になるまでマスターから優しい温かさを与えてもらった。
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【ホットチョコレート】VD話
外の掃き掃除も終わりそろそろ部屋に帰ろうという時になって、バーの扉から顔を覗かせたマスターが、俺に中へ入りカウンターへ座るよう告げてきた。さっさと帰って明日に備えた方がいいんじゃないかと思いつつも言われた通り中へ入り椅子へ腰を下ろす。するとマスターは俺の前にコトン、と湯気の立ったマグカップを置いた。ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「マスター、これは?」
「ホットチョコレートですよ、外は寒かったでしょう?」
いや俺は甘いものは……と喉まで出かかったが、折角の好意だ。俺は「ありがとう」とだけ口にしてカップを手に持つとその液体を冷ましながらゆっくり口に含ませる。名前と香りに反して、そこまでは甘くないそれは、俺の好みに合わせてか。
何だか照れくさくなり黙々とマグカップの中の液体を減らす俺を、後ろから別の香りと熱が包み込む。どちらも、よく知ったものだ。
「……マスター、何だ」
「いやぁ、今夜は寒いでしょう?僕もぬくもりが欲しくなりまして」
「……アンタもこれを飲めばいいんじゃないか?」
「いえいえ、それは君のために作ったものです。ボクはこちらで」
そっと体重を預けてくるような抱き締め方に、所在なく動かしていた身体を俺もマスターへ預ける。飲み終わったら、お家でもっと暖めてくださいね、と耳元に囁いてくるマスターに、俺は耳まで赤くなる程体温が上がるのを感じていた。
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霧生×JJ×霧生
【チョコの居場所】VD話
JJへのチョコを手に抱えたまま、俺は悶々と過ごしていた。男同士でバレンタインも何もあったものか、と綺麗にラッピングされたそれを何度も地面に叩きつけそうになり、その度食べ物に罪はないとギリギリの所で思い留まる。いっそ自分で食べてしまえばいいものを、そうすることも出来ず僅かなチャンスを窺っている自分が情けない。
「JJ、ちょっといいかい、頼みたい事があるんだ」
「あ、JJーボスとの話終わったらこっち手伝ってよー」
「おいJJ、お前最近また痩せたんじゃねえか?ほら来い、飯食いに行くぞ!」
しかしそんな俺の期待を裏切るように、JJの周りには人が絶えない。それこそ朝から夜まで常に誰かと居るような状況だった。無理にでも時間を作ってもらうことは出来ただろうが、そんなに器用な性格ならばここまで苦労はしていない。
そうこうしている内に深夜にかかろうという時間、部屋に帰ろうとする奴を捕まえようやく2人きりになれたはいいが、しかし何と言って渡したらいいかと頭が真っ白になり口が上手く回らない。
「……?霧生、それは」
「っ……その、これはだな……!」
情けない事この上ないが、JJがきっかけを作ってくれたおかげでチョコを掴み垂らしたまま固まっていた腕をようやく上げることが出来る。勢いで渡してしまおうと思った矢先、JJの一言でその気持ちは失墜してしまった。
「瑠夏にか?今日はバレンタインとやらなんだろう?早く行かないと日付が変わってしまうぞ」
ぶん殴ってやろうかと思った。何故この状況でチョコを取りだし、それが自分以外の相手への贈り物だと思うんだ。鈍いというか、もはやそういう次元の話ではない。
固まる俺に、何の優しさか「代わりに渡してきてやろうか?」と声までかけてきた。いらんお世話だ!と怒鳴りつけ、JJの横を通り過ぎようとする、だがこれではそれこそ部屋に戻った後このチョコは自分の胃袋以外に行き場を無くしてしまう。
腕時計を確認すれば、0時を数分過ぎてしまっている、それに気付いた瞬間少しだけ肩の力が抜けた。……もっとも、この男への怒りは治まらないが。
「……受け取れ」
「は……?」
「お前にだ。その鈍さはどうにかしろ!」
「……お前がわかり辛いだけだろう」
無理矢理胸へ押し付けたチョコを、JJはまるで壊れ物でも扱うかのように持ち直した。物を贈られる事に慣れていないのか、誰かの好意が自分へ向いていると、この男は考えもしないのかもしれない。
「JJ……っ」
「何だ……っん」
コートの襟を掴み自分の方へ引き寄せると、無理矢理JJへと口づけた。ガチ、と歯同士がぶつかり痛みが走る、唇が切れてしまったかもしれない。上手くもない、ただ唇を押し付けるだけのキスに、それでも気持ちはふわりと浮いた。
「……3倍返しだからな」
「っ……霧生、何なんだ一体」
「来月の今日が何の日か、調べておけ!」
血の滲んだ唇を舌でなぞるJJに見とれそうになりながら、俺は踵を返し自分の部屋へと走り去る。廊下は走っちゃだめだよ、と途中パオロに言われたが、赤い顔を見られまいと速度を緩めずに廊下を駆け抜けた。