海原に広がる金色の咆哮

目が覚める、そんなことはあり得ないはずだったのに。二度と世界を見ることはないと思っていた瞳が映したのは、清潔な色をした天井だった。指先を曲げてみるとぎこちないが動く、腕を上げてみようとしたところで上手く力が入らない事に気付いた、どうやら筋力が落ちる程長く眠っていたらしい。

「……っ……」

肺に溜まっていた空気が押し出され、一瞬呼吸が出来なくなった。噎せそうになって身体を強張らせた途端、全身の強い痛みに襲われる。
ぼやけていた思考がはっきりとしてくる、そもそもどうして自分はここに居るのだろうか、どうして、二度と目が覚めないはずなどと思ったのだったか。記憶があやふやだ、鼻をつくのは消毒液の匂いばかりで過去を喚起させる手がかりになりそうにない。
誰か居ないのだろうか、ここが病室であるのは周囲の様子や腕についている点滴からわかるが、誰が俺をここに運んだのかがわからない。
運んだ、連れてきた、のなら、その前俺はどういう状態だったのだろう。見える場所全てに包帯が巻かれ、まともに身体を動かせず、長く意識を失っている程の大怪我を負ったのか。
思い出そうとはしている、しかし薬の副作用かもしれないが、緩慢な吐き気で思考を続ける事が出来ない。目が覚めたばかりだというのに瞼を開けている事も出来ず、痛みやだるさから逃れるように、俺はまた意識を闇へと落とした。




手を握られる感覚で意識が浮上する、名前を呼ばれ目を開ければ膜が張ったような視界の向こうに、随分会っていなかった様な気がするあの人の姿。

「JJ……あぁ……よかった……!」
「っ…………マスター……?」

マスターの唇から零れたのは、心臓を直接掴まれるような響きだ。俺より冷たい手が、この人の気持ちを言葉よりも雄弁に伝えてきた。
身体を起こそうとして止められる。まだ無理はするなと毛布を掛け直され、その上からポン、と軽く身体を押された。まるで子供を寝かしつける時のような扱いだ、しかしこの人にされる事ならばそれも嫌だとは思えない。

「身体は動きますか?君は、一ヶ月も意識が戻らなかったんですよ」
「一ヶ月……そうか……」

それでは、このマスターの反応にも納得がいく。どのくらい心配をかけたのだろう、この人にはいつも心配ばかりかけている気がするなと、マスターの顔に浮かぶ皺を眺めながら思った。
その後すぐ医者を呼ばれ、全身の状態を確かめられてから、リハビリで身体の調子が戻り次第の退院が決まる。それを聞きながら、靄がかかったままの意識で、何かとても大切な事を思い出せていない焦燥感だけを覚えていた。

「……JJ、君に言わなければいけない事があります」
「……?」

医者が去り、面会時間が終わる数分前になってようやく、決意を固めたような表情のマスターが俺を見る。悲しむような、苦しむような、どこかホッとしているような、そんな複雑な瞳の色をして。

「ここを出た後、君の身柄はキングシーザーに渡さなくてはいけません」
「……キングシーザー?」
「君は、キングシーザーのボスに敵対した。理由があったとはいえ許される事ではない、それを君に命じた相手はもうこの世に居ませんから、君自身しかその責任を負えないんです」
「命じた……相手……」

煙草の香りがする、いつかに知ったダビドフの葉巻の香りだ。頭に浮かぶ、潮風に髪を揺らしながら不遜な表情で夢を語る男の姿を眺めているのは、俺なのか。
暴かれ辱められた、凪いだ海のような時間を共にした。そんな男との終わりは、欲望の糧が焼かれていく醜悪な煙の中、血に塗れ。

「――っ!!」
「JJ……?っ、JJ、落ち着いて下さい!息をして!」

ああ、ああそうだ、何もかも終わってしまっていたのに。あの男は、俺が殺すと願ったあの男は、赤い光に焼かれ踊りながら死んでいったではないか。どうして忘れていた、どうして、どうして俺は生きている。無様に死んだはずの俺は、どうしてここに。

「っ……は……っ」
「すみません……彼らに無理矢理暴かれるより、僕が思い出させた方がいいだろうと踏んで告げたことでしたが……結局君に辛い思いをさせた」
「……劉は……死んだのか」
「ええ……君はかろうじて息がありましたから、僕らが引き取りました」

引き取りました、と簡単に言っているが、あれだけ警官隊に囲まれた状態でそれは容易な事ではなかっただろう。どれ程苦労をかけたか、気を揉ませたか、申し訳なさは募るのに、それ以上に強い感情が喉から零れないように口を噤んでいるのが精一杯だった。それは、この人を傷つける言葉だとわかったから。
どうしてそのまま死なせてくれなかった、殺すべき相手をこの手にかけられず、また生きていくのか。俺はそうして何度、無意味な生を繰り返すんだ。人の命さえまともに奪えない死神の出来損ないに、この先も意味などないはずなのに。

「JJ……君が何を考えているか、全てではなくともわかっているつもりです……それでも」

マスターが俺の手を両手で包んだ。優しく、強く、俺をこの世界に引き留めようとでもするかのような温かさに、感情が揺れる。わかってなど欲しくはないと、突っぱねる事はこの人相手には出来ない。その心全てで俺の気持ちを慮ってくれる人だと、知ってしまっているから。

「僕は……君が生きていてくれて……本当に嬉しい」
「……マスター……」
「君がこの先脅かされる事無く生きられる方法は、キングシーザーに許しを請うしかない。梓君を人質に取られ、瑠夏を狙ったのもその上で強いられた事だと伝えてあります。君はある意味で被害者なのだと」
「……違う、俺は……」
「本当の事がどうであれ、僕は君の有利になるよう話を進めます。僕は君に生きていて欲しい……話を合わせてくれますね?」

問い掛けではない、有無を言わせず、そうするという確認だ。鋭い瞳が俺を見据え、頷く事を強いてくる。そんなマスターを見つめながら、自分は救われたのかがわからない。
ならば俺はあのまま、劉と共に焼かれてしまいたかったのだろうか。黄泉への駄賃にいくらかの金を燃やし、それを握ったまま共に地獄へ行きたかったのか。劉への感情は、こうして何もかも終わってしまった今でも定まらない。
思い出すのは共に眺めた穏やかな海や抱き締められた時の煙草の香りばかりだから、余計に混乱する。

「…………わかった」
「……ありがとうございます、JJ……」

安心したようなマスターの表情に居心地の悪さを覚えながら「少し眠る」と告げて瞼を閉じた。酷く疲れた、何も考えたくない。自棄になっているつもりはないのに、どうにでもなれという感情がうるさく騒いだ。
俺が何かを願い決めたところでそのひとつも叶わないのなら、死んでるのと変わらないだろう。ならば、マスターが願う通り生きていくのもいい、それで、この人の心が休まるのなら。







視線が痛い、殺気は肌に刺さるようだ。歓迎されないだろう事などわかっていたが、この今にも殺されそうな雰囲気はどうなのだろう。
しかし、当然か。俺はここのボスを一度手にかけようとした。殺したとばかり思っていたが、そのボスから直々の呼び出しがあったという事は仕留め損なっていたのだろう。あの時は劉を殺す事に気を取られ、銃の照準が狂ったとしても不思議はない。

「JJ、ここです」
「あぁ……」

やたらに豪華な屋敷の、一際重厚な扉の前に立たされ唾を飲んだ。あの約束から数ヵ月後、俺の体調が万全になってからキングシーザーの屋敷へと足を運んだはいいが、俺はこの扉を開けた途端、中の主人に撃ち殺されても文句を言えない事はわかっている。
マスターが共に来てくれているので滅多な事はないだろうが、それでも僅かに身が竦んだ。
あの時の男がこの部屋に居るのならば、俺を許しはしないだろう。激しい怒りに喉を震わせ、修羅の形相で向かってきた姿ならばまだはっきりと覚えていた。今の俺とあの男が銃を手にすれば、殺されるのは俺だろう。

「瑠夏、藤堂です。JJを連れてきました」
「……」
「あぁ、入ってくれ」

扉越しに籠った声、それを聞いたマスターは扉を開きまず自分が部屋へ足を踏み入れ、それから俺を招いた。どうやら、出会い頭に殺されるのは避けられたらしい。
視線を上げれば、金色の髪がまず目についた。続いて俺達を観察するような二対の碧眼、口元は笑みの形を作ってはいるが、その顔からはどんな感情も読みとれなかった。

「やぁ、よく来てくれたねショウに……JJ、だったかな」
「あ……あぁ」
「JJ、何も取って食おうってわけじゃない、そんなに緊張しないでくれよ。ほら、二人とも座ってくれ」

ソファーでくつろいでいる様子の瑠夏・ベリーニ、表面上は穏やかそうに俺へ話しかけてくるが、その心の内は計り知れない。元々他人の機微に疎い自覚はあるが、そうでなくともこの男はそういったものを腹に秘めるのが上手そうだ。
マスターと俺がソファーへ腰掛けると、瑠夏は背凭れにつけていた背中を離しようやく姿勢を正した。過去に自分の命を狙った相手を前に、随分と余裕な態度に見える。あの時はわからなかったが、この男の本質はそうなのだろうか。
……いや、どうでもいい事だ。どんな人物であろうと、この男の決断に俺は頷くしかないのだから。

「身体の調子は、もういいのかい?」
「……あぁ」
「キミ、さっきからそれしか言わないね。ボクを前に、緊張しているのか?」

からかい混じりの言葉に、いよいよ俺は返す言葉を失ってしまう。横目にマスターを見れば、表情は固いなりに苦笑し「体調はもう万全のはずですよ、筋力は、やはり落ちていますが。緊張は……しているでしょうね」と俺の代わりに詳細を答えてくれた。

「そうか……なら、難しい話はさっさと終わらせよう。まず、ショウの申し出の件についてだけど」
「はい」
「彼をキングシーザーに迎えるのは、すぐには難しい。脅されていたとはいえ、ボクに銃を向けたところは何人ものファミリーに目撃されている。特にボクに近い幹部達はクセの強いのが多いから、一朝一夕にとはいかないだろうね」

それは、そうだろう。そもそも、そんな申し出をする事自体ファミリーを侮辱していると言われ責められてもおかしくない。マスターとキングシーザーの関わりについては色々聞かされたが、例え前ボスの右腕だったとはいえそんなことをすれば批判は免れられないだろうに。
俺を生かす為にした事で、マスターがキングシーザーと対立してしまう。そんな馬鹿らしい話はないだろう、俺は、その辺でのたれ死んでも構わないと思っているのだから。

「……俺は、どうなっても構わない。マスターは俺を庇ってくれただけだ、マスターの不利になるのなら、殺してくれてもいい」
「JJ……」
「へえ、ショウには懐いているんだ。あの時は冷徹な殺し屋にしか見えなかったけど……ふぅん……」

影を作るように僅かに目を細めた瑠夏は、俺の全身を舐めるように眺めた。何が男の興味を引いたのかわからないが、俺の本心を探るような瞳に落ち着かない。マスターが隣に居なければ、すぐにこの部屋から出ていってしまいたかった。

「とにかく、ショウの頼みだ、無碍にはしないよ。部下を言い包めるのもボスの仕事だ。時間はかかるだろうけど、説得してみせるさ」
「瑠夏……ありがとうございます、恩に着ます」
「止めてくれよ、ボクの方がショウには返し切れない恩がある。それのひとつをチャラにしたと思ってくれ」

快活に笑うその表情に、先程チラついた影のようなものは見当たらない様に思える。俺の考えすぎだったのか、いや、仮にも自分の命を脅かした人間を前に、そんな聖人のように振舞える男がマフィアのボスなどやっているわけが無い。そんな人格者ならば、教会の神父にでもなるだろう。
頭の隅に歪んだロザリオが浮かび、気付かれないよう頭を振ってその残像を消した。未練や執着に目を瞑るのは初めてではない、息をするのと同じように繰り返してきた事だ、だから、なんてことない。

「それで、彼の体調が万全なら、二、三日JJをボクの元で預かりたい。いいかい、ショウ?」
「それは……僕は構いませんが、何故?」
「ショウの前だと出来ない話もある。保護者が居ると、子供はいい子ぶろうとするからね」

引っかかる言い方に顔を上げれば、瑠夏は俺の方を一瞥しただけですぐ視線をマスターへと戻してしまい、少しもこちらを見ようとはしない。ならば、俺が思った通りという事だろう。
この男は、俺を許してなどいない。つまり今の言葉は、そのまま瑠夏自身にも当てはまるのか。

「ですが、まだ内部が抑えられていないのでは?」
「この組織に招く、というならともかく、二、三日滞在させるだけならどうとでもなるさ。彼をこの部屋から出さなければ済む話だ、ショウと一緒に帰った事にしてね」
「っ……おい、何を」
「気色ばむなよJJ、監禁する訳じゃない。キミを知りたいだけだよ、組織に招くに足る人間か、本当に、ボクらの敵じゃないか……をね」

やわらかく微笑むその表情も、今では害意しかないように見える。この男は俺をどう扱う気なのか、少しもわからないのが不気味で仕方なかった。

「……JJ、判断は君に任せます」

嫌ならば、この話自体を無かった事にしてもいいと耳元に囁きながら、マスターは穏やかに俺を見つめる。
どうなってもいい、それは今でも変わらない。どうせ死に損なった身だ、もう何も、抱えるものは無くなってしまった。ならばこの男が俺を好きに扱おうが構わないだろう。そんな俺に唯一手を差し伸べてくれた人が、この男の元で生きる事を望むのなら。

「わかった……よろしく頼む」
「……うん、そう言ってくれると思っていたよ。とりあえず短い間だけど、よろしくなJJ」

聡いマスターが瑠夏の思惑を少しも感じてない訳が無い、それでも俺を任せた方がいいと判断しての事ならば、従おう。
その後、人の居ないタイミングを狙ってマスターが帰宅した。瑠夏は俺を寝室へ入るよう言いつけるとドアと鍵を閉め、残っていたらしい仕事へ戻った。手枷も無いのだから確かに監禁ではないが、暗い部屋でただじっとしている事しか出来ないこの状態は、やはりそれに近いのではないだろうか。
ただ時計の音だけを聞きながら数時間、ようやく部屋の扉が開く。瑠夏は「悪かったね」と笑いながら俺をまたソファーへと招き、テーブルにある料理をこちらへ寄せてきた。

「晩ご飯だ、簡単なものしか用意できなかったけど、明日はもう少しまともなものを食べさせてあげるよ」
「……随分待遇がいいんだな」
「だから、監禁じゃないと言っているだろう?ショウの前じゃキミが本音で喋ってくれないと思ったんだよ」

パスタの皿からは湯気が立ち上っている、食事など与えられないだろうと踏んでいた俺からすれば肩透かしもいいところだが、マスターに宣言した手前雑な扱いは出来ないという事だろうか。
俺にフォークを手渡してきながら、もし今それを受け取った途端フォークの切っ先を男の喉元につきつけてやればどんな反応をするだろうと、そんな性質の悪い思考が頭をよぎる。

「……アンタもな」
「ん?」
「アンタもマスターの前じゃ、本音で話せなかったんだろ」
「……ふふ、勘も悪くないんだね」

ほらまずは食べて、と俺へパスタを勧める瑠夏は、先程まであった得体の知れなさが少し薄れた気がした。肩の力が抜けたというのだろうか、先に食事を済ませたという男はエスプレッソを飲みながら、俺が食べている間をくつろいだ様子で過ごしている。
味の良し悪しには疎いが、このパスタは美味しいと感じた。それを素直に告げれば、そうかい?とはにかんだように瑠夏が笑う。何か薬でも仕込まれているのではないかと思っていたがその様子も無く、皿を空にした俺を見て男はまたニコニコと笑った。

「それじゃあ、次はシャワーを浴びておいで。そこに備え付けのシャワールームがある」
「……必要ないだろう」
「必要だよ、これからベッドに行くんだから」

遠回しな言葉を噛み砕くのには少しだけ時間を要した、気付いた瞬間固くした身体を瑠夏に見抜かれ、またあの探るような瞳が俺を見つめる。

「……話を、するんだろう」
「ベッドの中でも話は出来るさ、それこそ、夜通したっぷり、ね?」

声の調子が変わる、艶めいた響きを無視するには、俺の身体はそうした事を知り過ぎていた。この展開は想像していなかった、何より人が無防備になる時間を、あの男が俺と共にしようと考えるなんて。
瑠夏・ベリーニは何も考えていない馬鹿ではない、ならば俺を暴こうと考えた時に一番都合のいい方法が、それだったのだろう。

「俺が、アンタの寝首を掻くとは考えないのか?」
「今はショウにとってのいい子で居たいキミが、出来るのかい?」
「……どういう意味だ」
「キミと劉の間に何の関係も無かったとは思えない、強い感情を預けていた相手を亡くして途方に暮れていたキミを、唯一人救ったのはショウだ。失望されたくない、キミはショウを失うのを恐れている怯えた子供に見えるよ、ボクにはね」

一瞬で頭に血が上り、男の胸ぐらを掴む。抵抗する事無くゴホ、と咳込んだ瑠夏は、片手を俺の握り締めた拳に添えながら、また口を開いた。

「人は失った時に弱くなる、恥ずかしい事じゃないだろう?無意識に誰かに縋っていても、仕方ない事さ」
「違う……っ、俺は!」
「ショウは、導いてくれるから楽だろう?何も考えたくない時、それを見抜いてくれる。ショウに従っていれば、何も考えずに済んだはずだ」

瑠夏の胸倉を掴んでいる拳が震える、過去に世話になった相手だからだ、だから、これ以上俺の事で迷惑をかけたくなかった。そうして言うままに従った、形だけは選択を迫られ、全てマスターの望む通りに。
そうしなければ、俺は自分でこの先を考えなくてはいけなかったから。殺すべき相手を、劉を失ったこの先を、一人で。

「……っ……!」
「手を離すんだ、そして、いい子はシャワーを浴びておいで」

力を込めすぎて白くなった俺の指を撫でながら、瑠夏は殊更優しい口調でそう命令してきた。荒げてしまった呼吸をゆっくりと落ち着かせながら、掴んでいた手を離す。踵を返した足が向かう先は、最初に言われたシャワールームだった。






用意されたバスローブを着て部屋へと戻れば、先に寝室で待つように言われ瑠夏もシャワーを浴びに行った。一人で眠るには広すぎるベッドへ腰掛け、ぼんやりと冷たいシーツを撫でる。
弱っていた自覚は無かった、虎を、親の仇を失った時も一人でやっていけたのだから。また繰り返しただけだとただ眠る事しか出来ない時間で何度も自分に言い聞かせ、消えない影を消そうとした。無理だとわかっていても、そうするしか出来なかった。
劉の顔、声、匂い、どれもがまだ褪せることなく鮮明だ。この見えない死骸を抱えたまま、俺はあとどのくらい生きていくのだろう。

「……劉……」
「ボクのベッドで、他の男の名前を出すのはいただけないな」

ハッと顔を上げれば、バスローブを羽織った瑠夏が濡れた髪をタオルで拭きながら寝室へと入ってきていた。その気配に気付かない程俺は思考の深みに嵌まっていたらしい。立ち上がろうとすれば肩に手を置かれ、「そのままでいいよ」と瑠夏がギシリと音を立てながらベッドへ膝をついた。

「っ……ん……」
「ボクが居ない間に、劉の事を考えていたのか?」

首筋に顔を埋めた瑠夏はそこに唇を落とし、そのまま位置を上げながら問い掛けてくる。答えられずにいると首の薄い皮膚に噛みつかれ、びくりと身体が跳ねた。瑠夏は楽しげな笑いを零すと今度はそこに舌を這わせ、肩に置いた手へゆっくりと体重をかけてくる。
俺は片手で自分の体を支えながら、逆の手で瑠夏の胸を押した。

「止せ……」
「それが抵抗のつもり? 余計ボクを煽るだけだよ、JJ」
「んっ……!」

顔を上げたかと思えば、瑠夏は噛みつくように俺へ口付けてくる。すぐ入り込んできた舌は強引に俺のそれを絡め取り、後頭部に置かれた手が余計にキスを深くしてしまった。唾液が混ざり合う、瑠夏の熱が口腔を犯していく。それだけで頭がドロドロに溶かされそうになった。

「っふ……んん……!」
「……ん……あぁ、そうか。しばらく寝たきりだったんだよね」
「あっ……!」

キスだけで昂ぶってしまったものがバスローブを押し上げ、それに気付いた瑠夏が肩に置いていた手を下げるとバスローブに潜り込ませ、直接数度擦り上げてくる。確かにこうした行為自体数ヵ月ぶりだが、悔しい事に自分のこの反応は男の上手さも手伝っての事だ。
すぐに追い詰められ、押し返す為の手は男のバスローブを握る事しか出来なくなってしまう。

「うあっ……ん、ん……!」
「うん、必死で耐える声もボク好みだ……特別に、優しくしてあげようか?」

果てる直前に根元をきつく握られ、無理矢理射精を止められた。びりびりと脚の先まで快楽が駆け巡るようになり、生理的な涙まで出てきてしまう。耳元に囁かれた言葉に、しかし残った理性で首を振った。

「……アンタ、は、っ、俺を、どうしたいんだ」
「どうって……今はそうだな、キミのその邪魔な理性を飛ばして、ボクに縋る姿が見たいかな」
「そういう事を、訊いているんじゃ……っ!」
「もっと先の事?心配しなくても、組織がキミを受け入れる準備が出来たなら、その後はキミが従順である限りはボクが味方で居てあげるよ。ただしばらくはキミの事がわからないから、本当に寝首を掻かれても困るし、毎日意識が飛ぶまで犯してあげる」
「っ……まさか……」
「本当に、二、三日でここから出してもらえると思っていたのかい、殺し屋」

ベッドへ組み敷かれ、背後から圧し掛かってきた瑠夏が耳元へ低くそう囁いてくる。うつ伏せに抑えられた状態では抵抗も難しく、バスローブを脱がされ両手を後ろへ固定されると、ついでとばかりにまだ吐き出せていないままの昂ぶりの根元までを赤い紐のようなもので縛られた。痛みに眉を寄せれば、表情が見えないはずの瑠夏はあやすように俺の背中へと口付けを落としてくる。

「止めろ……っ」
「なぁ、本当にショウに失望されても平気なら、ここで大声を上げてごらん」
「なっ……」
「別に防音ってわけじゃないし、頑張れば外や廊下に届くかもしれない。キミの存在がバレれば、ショウの優しさも全て無駄に出来る」
「……っ」
「出来るなら、ね」
「ひっ……!」

生温い液体が尻を伝う、それに驚いている暇も無くすぐ入り込んできた指の圧迫感に息が詰まった。長い指が内壁を掻きわけ、深くへと侵入してくる。慣れていたはずのそれも、まだ脳内にこびりつく男の姿が責めるてくるようで、反射的に身体を強張らせた。
無理矢理に暴かれ、男の欲を満足させるためだけに激しく抱かれる。全身の鈍い痛みと倦怠感の中、男の腕の熱が時折自分を包んでいた。互いに殺し合う未来しかなかった俺と劉に、本来ならばあんな穏やかな時間は必要なかったはずだろう。望んだ事は無い、しかし劉が望んだ。そんな刹那の甘やかさを、あの男が。
俺達は、何だった? それはもう二度と答えが返って来ない問いだ。

「また、死人の事を考えている」
「っ……!!痛、あ……っ!」

うなじに熱と痛み、じわ、と染み出たのは血だろうか。次いでそこを舐められながら、後孔を嬲る指の数が増えたのを感じた。痛みと熱さ、探られた弱い場所を的確に擦り上げてくる指の動きに思考が散る。そうして男の姿が消える時、はっきりとしない恐怖が胸に落ちてきた。
こんな風に劉の事を消され続ければ、その内欠片すら残らなくなるのではないか。あの男は望んだ通り灰になったのだろうから、どこかに混ざり、それが劉だとはわからなくなってしまうのではないか。
その事に恐れを感じる俺は、すでに劉に狂わされていたのかもしれない。あの男の暗い光に焼かれ、視覚も脳も、何もかも。

「あの男は、人を狂わせると聞いたよ……キミも、そうだったのかい?」
「くっ……!あ、あっ!」
「死神も、恋をするのか……覚えておくよ」
「な……にを……?っ、あ!」

視界が反転する、今度は仰向けでベッドへ転がされると、無理矢理に大きく脚を開かされた。閉じようとするより早く割り込んできた瑠夏の身体に阻まれ、瑠夏の両手が内腿をじっくりと撫でてくる。

「墨か……そういえばドラゴンヘッドの連中は、入団の時に刺青を入れるんだったね」

嘲笑うような口調に、拭いきれない憎しみが混ざり合っているように感じた。当たり前だろう、キングシーザーのファミリー達は何人もドラゴンヘッドに殺されたのだから。怒りや憎しみはそれが強ければ強い程、風化し難いものだ。

「ここに入れたのは、決意を表す為かい?痛かっただろうに」
「……」
「折角だから、両方がよく見えるようにしてあげようか」

腰を高く上げられ、限界まで身体が二つに曲げられる。視線を下げれば太股の刺青も何もかもがはっきりと見える、視線を逸らそうとすれば顎を掴まれ、「ちゃんと見ているんだ」と唸るような声で命令された。
獣のような男だ。肉食獣の頂点に居るような。絶対的強者の唸り声は、きっとこの響きに似ている。

「キミがボクのものになるところも、これでよく見える」
「っ……」
「キミは、劉じゃなくボクに、瑠夏・ベリーニに抱かれるんだ。わかるだろう?」
「……や……め……っ」
「優しくされたくはないんだったね……大丈夫、酷くしてあげるよ。トんでしまうくらいにね」
「っ、嫌だ、止め、っう!!」

暴力的なまでの大きさのものが、後孔をこじ開けるようにして捻じ込まれた。衝撃に首を動かす事も出来ず、ただ瑠夏のものが俺の中へ入っていくのを半ば呆然として見ている。

「ひ……ぁ、あ……」
「切れてはいないね……長く楽しむなら、その方がいい」

一番太い部分を飲み込ませると、瑠夏は腰を引きどうしてか己のものを抜いてしまった。しかしすぐにまたゆっくりとそれを入り込ませてくると、同じように何度も挿れられては抜かれ、入ったままでも浅い場所ばかりを抜き挿しされる。気持ち良さともどかしさに、縋ってしまいそうになる手が縛られている事に安堵した。

「っ、ふ……う、ぁ……っ」
「ははっ、声が変わってきたね。気持ち良いかい?」
「うあっ!触る、な……っ!」

縛られたままの昂ぶりに触れられると、快楽と痛みが同時に身を苛んだ。そのままそこをゆるく揉まれ、また浅い抽挿が繰り返される。俺が無意識に腰を揺らせば瑠夏は動きを止めてしまい、その度に自分の浅ましさを突き付けられるようで顔が熱くなった。

「そろそろ苦しいだろう? 素直にねだれたら、イかせてあげるよ?」
「は……っ、ねだ、る……?」
「キミがして欲しい事をボクに全部言えたら、今なら特別に、叶えてあげる」

甘く蕩けるような声が、俺の理性を揺らす。錯覚しそうな程に優しい響きに、一瞬この男が俺にしている全てを忘れてしまいそうになった。違う、違う声だ。匂いも、温度も、何もかもが違う。この男は、俺の求める相手じゃない。

「……っ」

ギリ、と歯を食いしばる。その様子を見てスッと目を細めた瑠夏は、「それがキミの答えか」と苦笑しながらまた中のものを抜くと、今度は一気に全てを埋め込んできた。中を開かれていく感覚に背中を逸らせば、腕の筋が引き攣り痛む。
それでも待ち侘びていた身体はそれだけで達しそうな程高められ、しかし縛られている限り射精は出来ない。少しずつ、俺の意思とは無関係に理性が剥がされていく。このまま続けられれば、男の望むまま言葉を口にしてしまうかもしれない。
いっそ猿轡でも噛ませてくれればいい、そうすれば、聞きたくない自分の言葉を吐き出す事が出来ないから。

「うあっ!あ、あ、っ!」
「っ……は……なぁJJ……ボクはこれでも、キミの事を気に入ったんだよ」
「っあ……んっ……!」
「一度はボクの命を脅かした相手だ、言葉通り生死の境を彷徨ったよ……っ……だから、こうして再会出来たキミを、ん……殺してやりたいって感情が、無い訳じゃない」

まともに閉じる事も出来ない瞳からは、次から次へと涙が零れていく。ギシギシと鳴るスプリングの音が大きくなるのと同じく、瑠夏の動きも激しさを増していった。
快楽は高まる一方だ、瑠夏の興奮を伝えるようにその手が撫でまわしてくるどこも気持ち良くて、意識が焼き切れそうになる。イきたい、イかせてくれ、その言葉が喉から零れそうになる度歯を喰いしばり、細い糸のようになった理性が屈する事を許さない。

「でも、死にたがっているキミを殺してやる程、っ、ボクも優しくはないんだ」
「あっ……!」
「だから選ばせてあげるよ……ボクの気に入る答えを返せたら、これを外してあげる」

ピン、と指先で昂ぶりを弾かれ喉を大きくしならせる。脚の先が暴れるのも、身体が揺れるのもお構いなしに、瑠夏は何度も深く俺の中を穿った。ぼやけた視界の先に映るのは、間違える事など出来ないくらいに鮮やかな、金の髪だ。

「この刺青を捨てないままこうしてボクに飼い殺されるか、この刺青を消してファミリーの一員になるか……好きな方を選ぶといい」

動きを止め、墨一色の模様をなぞるように指を這わせる瑠夏。イエスかノーではない、ただ自分の元で俺がどう扱われたいか、逃げ場の無い選択を迫られているだけだ。
この刺青に未練など無い、元々が偽物の決意を示す為に丁度よかったから入れただけのもので、だから、後者を選ぶのがきっと正しい。今更正しさを求めるのも、笑える話だが。
ぼやけては一瞬だけ鮮明になる、そんな思考の中で低い男の声が混ざる。俺の脚を開き、そこにある誓いの証を確かめる度愉快そうに口角を上げていた男。
あぁ、せめてこの時だけでもチラつかなければ、俺はアンタを捨てられたかもしれないのに。

「……俺を、アンタの好きにしろ」
「それは……これを捨てないって意味、だね?」
「……あぁ」

マスターが居なくて良かった、きっとあの人に見つめられれば、俺はマスターを失望させる言葉を口に出来ないから。きっとあれが最後の別れだった、もっと感謝を伝えるべきだったと思いはするが、仕方ない。
梓はマスターの元に引き取られたと聞く、ドラゴンヘッドは劉が死んだ事により壊滅状態で、僅かな残党を残すのみだという。俺が必要な場所はもう、いやもしかすると初めから、この世界のどこにも無い。

「っあ!あぁっ!」
「いいね、その頑なさ……余計、崩してみたくなるよ……!」
「い、あ……っ!」
「長い時間をかけて、キミをボクのものにしてあげる……覚悟しておくんだね、JJ……っ」
「っ……い、く、ああぁっ!!」

昂ぶりの戒めが解かれ中を深く擦り上げられた瞬間、溜まっていた精を勢いよく吐き出した。頬にまで飛んだそれを瑠夏の舌が舐め、そのまま唇を重ねてくる。ねっとりと絡められた舌の上で、苦みと青臭さが広がっていった。まだ昂ぶったままの瑠夏のものを中に感じながら、俺は静かに目を閉じる。
それが眩しすぎたせいだろう、瞼の裏に映るのは、鮮やかなまでの金色だった。












「っ……ふ……」
「JJ、ほら。もっと脚を広げて、ボクに、よく見せて」

瑠夏に言われた通り両脚を広げれば、その分自分の重さで瑠夏のものを深く飲み込む事になる。ぞくぞくとした感覚に背中をしならせながら、それでも羞恥を抑えつけ自分の太股をその視界に晒した。

「っあ……これで……いいか」
「うん……あぁ、早く消してしまいたいよ、この色も模様も、憎くて仕方が無い」

言葉とは裏腹に、瑠夏のものは俺の中で硬さと体積を増す。今すぐにでも腰を揺らしてしまいたいが、瑠夏の許可が出るまでそれは叶わない。勝手に求めれば、また快楽で気が狂いそうな仕打ちを受ける羽目になるだろう。

「……っ……瑠夏……」
「んー?どうしたんだいJJ、すごくいやらしい顔をしてる」
「今日も……焦らす気か」
「ふふ、どうしようかな……なんてね。上手に出来たから、ご褒美をあげるよ。好きに動いてごらん」

俺の身体を辛うじて支えている脚を掌でなぞり、目元を赤く染めた瑠夏が牙を見せて笑った。とっくに我慢の限界だった俺はすぐ瑠夏のものを深く飲み込み、何度も腰を上下させる。激しいなぁとからかう瑠夏はまだ余裕で、それが悔しく深く飲み込んだまま締め付けてやれば、僅かにその表情が歪んだ。

「随分、ボクを煽るのが上手くなったね」
「……アンタのおかげでな」
「もう、自分で動くのじゃ物足りなくなった?」
「……」
「可愛いね、JJ……ああ、本当に……嫉妬でおかしくなりそうだよ」
「……?今、何て……っう!」

唐突に下から深く突かれ、体のバランスが崩れる。目の前の瑠夏の胸へ縋りつくと、ゆるく揺さぶられながら顎に手が添えられた。乞われるままに顔を上げれば、しっとりと唇が重なる。
まるで慈しむようなキスだと、願望が入り交じったようなそれを自分からも動く事で頭から追い出し、快楽にだけ集中した。この思考に溺れてしまえば、浮かぶのはいつもあの時の選択だから。
もうひとつを選んでいれば、何が違ったのだろう。しかしそれを思う度、まだ消えない姿が胸を焼いた。どれだけ時間が過ぎたところで、この太腿に刻まれた色を見る度に鮮明に蘇る。何に殉じているつもりなのか、死者は、何も語りはしないのに。

「死者に敵わないなんて……御免だよ」
「っ、あ……!瑠夏……っ?」
「……こんなはずじゃ、無かったのにな……JJ」

俺の名前を読んだ後、何かを続けたがる様に震えた瑠夏の唇は、少しの間の後苦笑と共に閉じられた。それを積極的に問おうとしないのは、続く言葉に気付きかけているからか。
遠くに潮騒、瞼を閉じれば金色。重ねられた唇の後、俺は呼ぶ名前をまだ迷っている。生と死の狭間で、生かされたまま。





おわり