「旅に出よう」
「は?」

年末年始の挨拶まわりに、各所から送られてきた書類の整理に他諸々と、睡眠もまともに取れずにいた数日で瑠夏の何かが切れたのだろうか。間抜けな声を出し男を見つめれば、両手をデスクの上で組んだまま至極真面目な表情でもう一度その言葉を口にしてくる。
眠らせた方がいいだろうか、しかしそんな個人的な甘やかしで休息を取らせることが出来るのなら、もう何日も前に休ませてやれただろう。

「コーヒーでも淹れてきてやろうか?」
「キミ、コーヒーメーカー使えるようになったのかい?」
「いや、その辺の奴を捕まえて淹れさせる。疲労困憊のボスに、失敗作は飲ませられないだろう」
「いっそそれでもいいなぁ……あの味は、ある意味すごく意識がはっきりするから」
「……悪かったな」

自分で思った以上に拗ねたような声が出てしまい、口元に手をやりながら目を逸らした。失敗作の味は自分でも飲んだ事があるからわかるが、泥水をそのまま飲むのとどちらがいいかと問われてしばらく悩んでしまうくらいのものだから、否定する事も出来ないのが悲しいところだ。

「あぁでも、そうだ」
「何だ……おい……?」
「キスさせてくれたら、もう少しだけ頑張ってあげるよ」
「……その書類の山が無くなるまで、自分の仕事をほっといてアンタにくっついてろって?」
「そうだ。一緒にパオロに怒られてくれ」

そう悪戯っぽく言った瑠夏は、俺の唇に軽く触れてから軽く食むようにして口付けてくる。流石にそんな時間は無いので、盛り上がってしまう前に俺からその身体を押し返した。ただでさえ最近まともに触れ合えてないというのに、このままでは本当にパオロの説教をくらう事になってしまう。
自分も大概ケダモノだと思っていたが、瑠夏はそれ以上だ。煽るのが上手く、その牙を隠しながら気付けばペースに乗せられている。今だってそうだ、もっと触れてほしい気持ちを抑えつけるのがどれだけ大変か、ようやくゆるんだ表情のまま見つめてくるこの男はわかっているのだろうか。

「ん……よし、もう少し頑張ろう」
「……俺は、一度外すぞ。まだ仕事が残ってる」
「はぁ……ボクの充電が切れる前には戻ってきてくれよ」

少しだけ情けない響きの言葉に、俺は笑みを隠せないまま「そうする」と告げ部屋を出る。廊下を歩きながら無意識に濡れた唇を指でなぞっている自分に気付き、堪え性が無いのはどちらなのかと、緩めた唇から溜息を吐いた。





「まさか……本気だったとはな」
「ははっ、キミ、それ何回言う気だい?ほらこっちの料理も美味しいよ」
「んむっ……ん……あのな、勝手に人の口にものを突っ込むな」
「だってJJ、放っておいたら全然箸を動かさないんだから」

また自分の箸で摘まんだものを俺の口へ運ぼうとする瑠夏に、止めてくれとお椀に入ったすまし汁で先に口腔を塞いだ。少しぬるくなったそれは、しかし上品な味を損なわせてはいない。単純に美味しいと思うが、どうにも種類のある食事は苦手だ。どれから手をつければいいか悩んでいる内に、食べる事を諦めてしまうから。
しかしこのままだと自分が幼い子供になり世話をされているようで、仕方なく適当に器に入った料理を摘まんでいく。俺の様子に安心したのか、ようやく瑠夏も自分の食事を再開した。

「……それで、この旅行の目的は何だ?」
「キミと心ゆくまでいちゃいちゃすること」
「それは聞いた」
「じゃあいいじゃないか。それ以外に理由なんてないんだから」

閉口する俺に、瑠夏はウィンクを返してくる。いつかもこの男の父親によくわからないタイミングでウィンクを飛ばされたが、こうしてみるとやはり親子なのだと思った。瑠夏に言えば、難しい顔をされるかもしれないが。
瑠夏に付き合わされ色んな乗り物を経由して辿り着いた場所は、一面銀世界の中に建つ旅館だった。昔ながらの風体だが寂れてはおらず、なるほど日本が好きだと公言している瑠夏が好みそうな造りの宿だと、慣れない雪道を歩きこの宿を目にした時にそう思った事を思い出す。
久々の長いオフは二人だけでゆっくりしようと、引き止める家族達を置いて半ば無理矢理こうして旅行に来てしまったが、帰った後が怖いなと今から肩を落とした。

「ふう……お腹も一杯になったし、少し休んだら次は温泉かな」
「瑠夏、あまり人が集まる場所は……」
「大丈夫だよJJ、この宿は各部屋に露天風呂がついているんだ。だから何の気兼ねなく、二人きりで入れるよ」
「そういう意味で言ったんじゃない」

違うのかい?とのんびりした口調で零しながらだらしなく寝転がる瑠夏に、食べてすぐ寝ると牛になるぞと視線をやる。ここで借りた浴衣に着替えている瑠夏の胸元が大きく開いているのを目にして、なんとなく罰が悪く目を逸らした。
そのまま眠ってしまいそうな瑠夏は、幸い俺の挙動不審には気付かなかったらしい。ホッと息を吐いて俺も横になれば、ハードスケジュールをこなした後すぐの長旅で、疲れからか緩慢な眠気が襲ってきた。
まだ、時間は十二分にある。少しくらいこうして何もせず眠ったとしてもお釣りが来るくらいだ、寝返りをうち瑠夏の顔を眺めれば、もう寝入っているのか穏やかな寝息が聞こえてきた。畳に雑魚寝なんて、特に瑠夏には相応しくないだろうが……それを注意する奴らも居ない。俺も瑠夏に倣い目を閉じて、しばしの眠りに落ちる事にした。



「JJ……JJ、起きて」

意識がふっと浮かんだ。真っ暗な室内に、いつの間に電気を消していただろうかとぼんやり考えながら、まだ焦点の合わない瞳で瑠夏を見る。

「ん……瑠夏、か……悪い、すっかり眠って……今、何時だ」
「丁度日付が変わったくらいかなぁ、ボクもさっき目を覚ましてね、4時間くらいは寝ちゃったみたいだ」

勿体ない事をした、と口にする割に、その表情は嬉しそうだ。瑠夏の頬に畳みの跡を見付け、まだ半分覚醒していない意識のままそこを指先でなぞれば、くすぐったそうに目を細め俺の頬にも指が伸びてくる。

「キミも、ここ」
「ん…………お、い……風呂が、先だろ」

指先で触れられた場所にキスを落とされ、そのまま顔中に口付けられ、気付けば俺は瑠夏に押し倒されている格好だった。浴衣の襟を広げてこようとする男の手を掴み、しかしすぐその手を逆に取られ畳みへと押し付けられる。月明かりだけで充分明るい室内は、覆い被さる瑠夏の表情を綺麗に浮かばせた。
ふすまで仕切られた向こうに、二組の布団が敷いてあるはずだ。しかしそこまでも待てないと、瑠夏は俺の肌へ唇を触れさせていく。眠っている間に余計乱れたのか、浴衣から覗く男の白い肌は、さっき見た時より扇情的だ。

「なぁJJ、ボクらがどれだけこうして触れ合ってないか、数えてごらん?」
「なんで……んっ……わざわざ」
「そうすれば、きっとキミも我慢なんて出来なくなる。それこそ、数歩先の布団へ行くのも惜しくなるくらいに」

甘く囁きながら口付けてきた瑠夏に、俺は言われた通り瑠夏と触れ合えてない期間の長さを思い出す。きっとそれ程ではない、想いが通じる前も後も、もっと長く離れていたことはざらにあった。
しかし傍に居るのに触れていないと、それはやけに長く感じられる。夜は短い睡眠で終わり、互いに顔を合わせる機会は多いがすぐに別の仕事で離れる事も頻繁だった。何度となく湧き上がってきた感情を殺したのは一体何回だったか、そうして克明に思い出していくにつれ、瑠夏の言った通りに理性が剥がれ落ちていくのを感じる。

「…………」
「ほら、何も言えなくなった。いいだろう?JJ」

口ではそう尋ねながら、瑠夏の手は答えを聞くより早く浴衣の帯を解いていた。自由になった手はそれでも畳に落とされたままで、今まで寝ていたから頭が働かないという理由をつけ、開かれていく肌から目を逸らす。
月の光はこんなに眩しかっただろうか、暗闇に目が慣れたのもあるだろうが、瑠夏の姿も自分の姿も肌を滑る指の動きまで克明に見えてしまい、しかし逸らしたところで今度は感覚が鋭敏になるだけだった。

「うぁ……っ、ふ……」
「JJ、声聞かせて」
「嫌、だ……他の部屋に、聞こえたら……あ……っ」
「大丈夫、もう皆寝てるよ。だから、いくらでも可愛い声を出していいんだよ」
「っあ!……いい、訳……っ、んん!」

必死に声を抑えようとする俺に構わず、瑠夏は触り心地を確かめるような手つきで肌を撫でまわしてくる。突起を掌で捏ねられ、かと思えば腹部へ下がり際どい場所を掠めてきた。直接触れられたわけでもないのに、期待に震える身体は勝手に声をあげてしまう。畳を引っ掻いていた手で自分の口を塞げば、「あ」と瑠夏が不満そうな声を漏らした。

「強情だなぁ……JJ、後悔するよ?」
「な、にを……っあ、あ……!」
「ボクが知ってるキミの好きな触り方で、キミの弱いところばかり攻めてあげる。ドロドロにしてあげるよ」
「い、あぁ……っ!瑠夏、止めっ、うぁっ!」
「すぐお風呂に入れるから、沢山しても大丈夫だね」

手であちこちを弄りながら瑠夏は俺の首元に顔を埋め、耳をペロリと舐めてくる。そのままゆっくり舌が降りてきて、鎖骨辺りを唇で強く吸われた。ああ、今のは絶対に痕が残っただろう。旅行の間に消えるだろうかと、だがすぐにそんな訳は無いと気付く。
今日だけなはずは無い、こうして事あるごとに求められるだろうし、俺も求めてしまうのはわかりきっていた。お預けを喰らった数日を取り返すように、触れたくなるに決まっている。

「愛してるよJJ……この旅行の間、ボクらはただの恋人同士だ」
「はっ……ぁ……瑠夏……」

甘い声に、その言葉を本気で口にしている瑠夏に、俺は夢の中にいるような錯覚を覚えた。こんな幸せが本当に現実なのか、全身の感覚と慣れた香りがそうだと教えてくれるが、もっと強く実感したくて両腕を瑠夏へしがみつかせる。
確かに存在する熱に、俺は目の前の男の瞳を覗き込んだ。暗闇の中綺麗に浮かぶ輪郭はどんどんと近くなり、そっと唇が重なる。それが何度も啄ばむように繰り返されるから、俺はいつしか瑠夏につられるように笑っていた。



おわり


あけましておめでとうございます!

[2013年 1月 4日]