甘く酔う唇

はぁ、と何度目と知れない溜息が聞こえてくる。視線を向ければ不満を隠そうともしない顰め面が俺をじっと見ていた。いい大人がするような顔か、と呆れながらも口を開く。

「瑠夏、どうした?」
「飽きたんだ、もう書類なんて見たくもないよ」

バサリと手に持っていた紙束を机に置くと、重厚な椅子を軋ませながら背もたれに身体を預ける瑠夏。眉間を指で揉みながらまた深い溜息を吐く。そんなに溜息ばかり吐いていたら幸せが逃げるぞ、と揶揄すれば、その体勢のまま先程より拗ねたような響きの言葉が返ってきた。

「いいよ、ボクにはキミと…家族が居てくれればそれで充分だ」
「なら、俺と家族のためにその書類をさっさと片付けてくれ」
「JJ……キミにはボスを労ろうという気持ちはないのかい?」
「全部終わらせたらいくらでも労ってやるよ、ボス」

わざと普段はあまり使わない名で呼んでみると、瑠夏は更に不満そうにじとりと俺を睨みつけてくる。どうやらここ数日のデスクワークで相当ストレスが溜まっているらしい。俺も大きな仕事がないためお目付け役を任ぜられここに居るが、自分がもしあの量の書類を捌く羽目になれば、もっと早い段階で爆発していただろうとは思う。

「嫌だ」
「は?」

嫌だ、とは、マフィアのボスともあろう男が随分子供っぽい事を言う。呆れたような俺の視線を気にすることなく身を起こした瑠夏は、椅子から立ち上がりソファーに腰掛けていた俺へと近付いてくる。

「そもそもキミが傍に居るのに、どうして仕事なんてしなくちゃいけないんだ」
「……アンタが溜め込んだからだろう、自業自得だ」
「JJ、正論はいつだって正しい訳じゃないよ?」

自分が無茶苦茶なことを言っている自覚はあるのだろうか、しかし反論するより早く瑠夏はその大柄な身体で俺へと覆い被さってくる。ある程度予想はしていたとはいえ、流されてしまえばこの男の思う壺だ。わかりやすい拒否を示そうとその身体を押し返すと、ムキになったらしい瑠夏は俺の肩に手を置き、そのままソファーに押さえ付けるようにして押し倒してきた。

「おい、瑠夏…」
「ちょっと休憩するだけだよ」

ちょっと、で済む訳がない。この男に一度火がつけば相手を貪り尽くすまで止まらないのはもうわかりきっている。……散々、経験してきた。俺自身も瑠夏に求められてしまえば完全に拒否が出来ない、何とか誤魔化してしまわなければと見上げた先にあった瑠夏の瞳は、すでに欲の火が燻り始めている。それだけで身体が反応しそうになり、慌てて視線を逸らした。きっとすでにこの男の思う壺なのだろうと思いながらもどうにか逃げる方法を考えていると、ふと瑠夏の腕の力が緩む。

「はぁ……わかったよ、じゃあ、少しゲームに付き合ってくれれば仕事に戻る」
「ゲーム……?」
「すぐ終わる簡単なゲームだよ。そのくらい、付き合ってくれるだろう?」

あまりにもあっさりと引いたことに不安を感じないでもなかったが、あの瑠夏が珍しく自分から折れたのだ。俺は「わかった」と了承しその提案を受け入れた。瑠夏は表情を緩め身体を起こすと、自分のデスクに戻り引き出しから何かを取りだし、またすぐに俺の元へと戻ってくる。何を持ってきたのかと目をやれば、それはよく見かける菓子の箱だった。これを使ったゲームなのだろうか、一体何を始める気なのかと、今更ながらに不安がぶり返す。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、瑠夏はその箱を開封し、中に入っている外側の3分の2程をチョコレートでコーティングされている棒状の菓子を1つ取り出す。そしてそのチョコの側を俺の口元へ伸ばしてきた。

「……何だ?」
「だから、ゲームだよJJ。お互いに両側から少しずつ食べていって、先に折った方の負けだ」
「は……」
「ほら、始めるよ」

瑠夏はうきうきとした様子でチョコに覆われていない部分を咥えると、また俺へ逆側の甘ったるそうな部分を差し出してくる。こんな結末のわかりきったゲームに付き合うのは馬鹿げている、そう思いながらも一度付き合うと言ってしまった手前無下に拒否することも躊躇われた。上手くすればおとなしく仕事に戻ってもらうことも出来るだろうと、無理矢理自分を納得させ差し出された先を咥える。

「ん…」

それが開始の合図だったらしい、瑠夏が少しその菓子を噛み砕きながら距離を詰めてくるのを見て、俺もそれに倣い咥えた部分を噛み砕く。口の中に甘ったるさとほんの少しの苦み、このくらいの量ならいいがこれを沢山、それこそ先程の箱に入っている分を食えと言われたら辛いものがある。
眉を顰めた俺に気付いたのか、瑠夏の口角が楽しげに上がった。それを無視してまた少し口の中のものを噛み砕く。瑠夏も少しずつ距離を詰めてきていたらしく、いつの間にかチョコの部分にその唇が触れていた。段々と近くなる距離に、妙な居心地の悪さを感じる、が、自分から先に離れるわけにはいかない。このゲームに負けてしまえば、瑠夏が一体どんな要求をしてくるかわかったものではないのだから。

「っ……」
「……」

口を使ってのゲームなのだから仕方ないが、お互いに何も話さずただその距離だけを近づけているのは不思議な感覚だ。ふと視線をあげて瑠夏の表情を窺えばその目は真っ直ぐ俺を捉えていて、気付いてしまえばその視線に絡めとられる。そうしている間にまた瑠夏が少し距離を近づけてきた、お互いの鼻先が触れ合いもう咥えているものの残りは僅かだ。
耐えるようにきつく目を瞑ると、瑠夏の吐息を強く感じた。そのまま触れるだろうものを想像し身体を緊張させた途端、ポキ、と軽い音の後近すぎた体温が離れていく。

「ん……?」
「んっ……残念、ボクの負けだ」

口の中のものを嚥下し、にっこりと楽しそうな笑みを浮かばせたままそう言った瑠夏はそのまま俺から離れ元居たデスクへ戻ってしまう。ぽかんとその様子を目で追っていると、瑠夏は俺を見てまたにこ、と微笑みすぐ視線を書類に移してしまった。
舌の上に残っている甘みと苦みを飲み込むと途端に口寂しさを感じる。触れるとばかり思っていたものは吐息しか触れず離れていった、つい瑠夏の唇に視線を向けてしまう自分に気付き焦って視線を逸らす。後少し、もし俺がもうひと齧りしていれば触れただろう唇に指を添えそこをつい、となぞった。触れたい、触れて欲しい、いつの間にか立場が逆になっている。

「そうだ、JJ」
「っ……!」
「ボクが負けたから、1つ、何でもキミの言う事を聞くよ。何がいい?」

いつからかこちらに視線を戻していた瑠夏は、先程とは違い妖しい色を含ませた瞳で俺へ笑いかけてきた。ゲームに勝った俺が、負けた瑠夏に何を望むのか、この状況にわざと持って行ったあの男はわかっているのだろう。そしてそれを裏切るほどに、俺は我慢強くない。

「……アンタ、わざと負けただろう」
「んー?何の事だい?」

デスクに肘をつき、素知らぬ顔で俺を見ている瑠夏をきつく睨みつける。それでも動く様子のない男の元へ、自分から足を運びすぐ傍に立った。見上げてくる瑠夏の肩に手を置き、顔を近付ける。楽しそうに歪ませた唇にもう少しで触れそうな瞬間、瑠夏が人差し指を俺の唇に触れさせキスを阻んだ。

「ねぇJJ……望みは、口で言わないと駄目だろう?」
「っ……わかる、だろ」
「どうだろうなぁ、ボクの想像と違ったら困るから、念のため言ってくれるかい?」

最初俺が散々拒んだことへの意趣返しのつもりか、意地の悪い男だ。口を噤んでいると、触れている指がゆるく唇をなぞり始める。その触れ方にぞく、と小さく身体が反応してしまい、瑠夏の方を掴んでいる手の力が強くなった。触れられない事がこれ程自分を煽るとは知らなかった、普段べたべたと触ってくる相手だから余計なのだろうか。キスをして抱きあう想像が脳を巡り、どうしようもなくなってしまう。

「…………」
「JJ」
「……アンタ、に……キス、したい」
「それだけ?」
「っ……その……」
「キスだけで満足、出来るかい?」

瑠夏の指が唇から首筋へと移り、鎖骨をくすぐるようになぞった。身体の熱は上がっていく、それでは本末転倒だとわかっている、わかっている、が、一度灯ってしまった火を自分で消すことは出来ない。燃え上がらせ燃え尽きさせなければ、この身体は満足しないだろう。

「……出来るわけ……ない、だろ……だから……」
「ボクに抱かれたい?可愛いね、JJ……」
「んっ……」

触れそうな距離のまま甘く囁いた瑠夏は、俺の頬に手を添えようやく唇同士を触れ合わせた。軽く数度啄ばむようにして口付けてから、今度は深く唇を重ね甘くほろ苦い味の残る舌を差し入れてくる。それは上顎をなぞり、絡めた俺の舌を執拗なまでにねぶってくる。呼吸もままならない程激しく貪られ、俺は紡げない言葉の代わりに掴んでいる肩を押し苦しさを訴える。が、いつの間にか腰に回っていた腕で身体を引き寄せられ、半ば瑠夏へ覆い被さるようにしてその口付けを受け入れ続けた。
ようやく唇が離れていくと同時に、膝がガクリと崩れる。もたれかかる俺の身体を支えながら瑠夏は尚も耳や頬に口付けを落としていく、絶え絶えな息を吐きながら、その合間にどうにか瑠夏へ言葉をかけた。

「は、ぁ……瑠夏、何だか……しつこく、なかったか……?」
「んー?だってほら、キミの方が多く食べたろう?」
「……?」
「チョコの部分。だから、わけてもらったんだよ」

言っている意味が把握出来ずぽかんとしていると、瑠夏は耳元に口を寄せ「甘くて美味しかったよ」と悪戯っぽく囁いた。それでようやく瑠夏の口付けがしつこかった理由がわかり、呆れと脱力感に深い溜息を吐く。
どこからどこまでがこの男の計算通りなんだろうか、と考えると途方に暮れたくなった。結局のところ俺が瑠夏に勝つことなど不可能なのだろうと、あっさりと逆転した勝ち負けを思い出しまた溜息を吐く。「そんなに溜息ばかり吐いていると幸せが逃げるよ?」と、どこかで聞いたばかりの台詞を瑠夏は楽しげに口にした。

「このままベッドに行くかい?それとも、そうだな、たまには一緒にお風呂なんてのもいいかもね」
「……好きにしてくれ」
「そう?なら、お風呂に行こうか。隅々まで丁寧に洗ってあげるよ」



そしてその言葉の通り、風呂場で散々好き勝手に身体を弄られ、貪られ、それでも足りないらしく部屋に戻った後もバスローブ姿のままベッドの上で、俺は瑠夏に抱かれていた。

「んっ、んん……っ!」
「ん……ふふ、またキミの負けだよ」

いつのまに手にしていたのか、先程使った菓子の残りを取り出した瑠夏は、「このままじゃ勿体ないから」とまた同じようにゲームを強要してきた。勿論、行為は続けたまま、だ。どう考えても不利な条件の中始められたゲーム、当たり前だが煽られ続けている俺の勝率はボロボロで、そもそも稀に勝てたところで自分の得にならないどころか、これは単に瑠夏を喜ばせるだけだ。

「いっ……!お、い、瑠夏……っ」
「だってキミ、すぐ折ってしまっただろう?だから、これは罰だ」

肩の辺りを強めに噛まれ、痛みに声が上がる。勝利者は相手にキスマークをつける、などというわけのわからないルールを設定され、瑠夏はほんの数ヶ所だが、俺の肌には至る所に赤い痕が残されていた。そして今回は咥えてすぐに瑠夏に前を刺激されつい歯を食い縛ってしまったがため、まだ長さを残したままゲームは俺の負けで終了してしまったのだ。瑠夏はそれを咎めるようにわざわざ肌に噛み痕を残し、そのまま上に乗っかっていた俺を押し倒すと突然深く抉ってくる。

「っ、あ……!あ、待て、瑠夏……!」
「っ……最後の1本だったのになぁ……もっとキミとのゲームを楽しみたかったんだよ?」
「あ、あっ!知る、か……っ、そんな、の……っ」
「だから……責任とって、キミがもっとボクを楽しませてくれ……っ、いいな?JJ」
「あぁっ……!あ、もう……無理、だ……んんっ」

口から漏れた弱音を奪うように、瑠夏が深く唇を合わせてくる。更に激しくなる水音に煽られながら、俺は強く瑠夏にしがみつく。無理だと、そう口にしたところでこの身体は簡単にその限界を超えてしまう。
一瞬、瑠夏の仕事を滞らせた事で俺にも咎めが来るだろうことが頭をよぎる、が、それはすぐ快楽の波に浚われた。

「瑠夏……っ、あ、瑠夏……!」
「JJ……っ、キミが可愛すぎて、どうにかなりそうだ……愛してるよ」

ゲームの名残で、その唇はいつも以上に甘い。しかし紡ぐ言葉はそれ以上に甘く感じる。
胸やけしそうだ、と考えながらもそれに酔い、俺は自ら更に深く貪っていった。













おわり