神様、神様、一生のお願いがあります

自分が足元に居るというのは不思議な光景だ。目を閉じ、押し出された血を口から流し、もう二度と目を覚まさない骸。心音も呼吸音も聞こえない身体はとても静かで、どんな事にも心が揺れない。死ぬ前に願った一瞬の思いすら、遠い過去の記憶に思える。
人としてまともでは無かった自分が教えられたいくつかの穏やかさは、全て落としてしまったのだろうか。
自分の顔を見下ろせば、改めてこんな顔をしていたのかと感じる。他人の顔を見ているようだが、記憶を失くしてからとはいえ10年以上は見てきた顔だ、忘れようがない。満足そうとは言えないが、己の人生を振り返れば穏やかな死に様だろう。

「……だが、な」

あの世も来世も、ましてや極楽浄土など信じていなかった。人は死ねば終わるだけだ、どこに行ける訳も無い。それまでのおこないも価値観も関係なく、ぷつりと途切れるのが死だ。そう思っていた。
だとすれば、これは何だろうか。自分の死体から離れ人の波に紛れてみても、誰も気付こうとはしない。面識がある相手でも、まるで見えていないように。特にパオロ辺りが好んでいた怪談話ではよく、未練を残したものが幽霊になり人を脅かすといった展開を耳にしたが、つまり俺は現世に未練を残し幽霊になってしまったということか。
しかし、まるで空っぽになってしまったような心の中に思い当たることは無い。

「…………」

俺に戻れる場所があるとするならそれはひとつだけだ、迎え入れられる場所も同じだろう。今ではただのがらんどうになってしまったあのプレハブは、お世辞にも自分の家とは呼べない。
なら、そこを捨て選んだ、あの屋敷だけだ。
時間の感覚は曖昧だった、先程まであった自分の死体の場所に戻れば、そこはとっくに片づけられ抗争など無かったかのようになっている。俺の身体は今頃どうなっているのだろう、燃やされたか、それとも海にでも捨てられているだろうか。その辺の山にでも置かれ、ただ腐敗し木々の栄養にでもなっているかもしれない。どれにしろ、身体が無くなったらこの俺が消えるという訳ではないようだ。
死ぬと、誰もがこうなるのか。意味も無くそこに在り続け、早送りで流れるような自分の居ない世界を見守るだけ。残酷だとは思わないが、あまりにも空しい。

「……が……ええ…………では、そのように」

眠っていた訳ではないが、どうしてかここまでどう歩いてきたかを覚えていなかった。夢から覚めるように前を向けば、見覚えのある屋敷の中の、一際重厚そうな扉の前に立っている。ここに来たいと願ったから、来れたのか。随分と都合が良い、まぁ歩いて向かうには遠い場所だったのだから助かったというべきなのかもしれないが。
ガチャリ、とその扉が開く。もう動いてはいないはずの心臓が跳ねるような感覚に戸惑った、自分の死体を見ても、この身体は静かなままだったというのに。

「それではボス、失礼致します」

これは、霧生の声だ。記憶の中そのままの、しかし俺に突っかかってくるときとは違い緊張している固いトーンの、そうだ、霧生は俺より付き合いが長いくせに、あの男の前に出るといつもこうだった。
嫌われたくは無いくせに、盲目的故に相手が望まない行動をとり叱られ、その度に可笑しいくらいに落ち込んでいるような。あの温厚な男を激昂させ殴られた事がある自分も、人の事は言えないが。
霧生と目が合う、が、すぐに逸らされた。いや、元々合ってすらいなかったのだろう、ただ自分が奴の視線の先に居たというだけで、向こうには見えてすらいないのだから。そうして思い知らなければ、生きていると錯覚してしまいそうだから、丁度いい。

「あぁ、ゆっくり休んでくれ」

その言葉が部屋の奥から聞こえ、俺の足は反射的に地面を蹴り閉まりかけていた扉の隙間を潜った。一瞬の事だ、霧生は、知らないのだから当たり前だがそのまま何事も無かったかのように扉を閉める。
ドアをすり抜ける事も、人をすり抜ける事も簡単だ。だからそれをしないと決めるだけで俺は、望んだとおりその部屋の中に閉じ込められた。

「……んー……ふぅ……」

一人になったからか、デスクに座っている男はその大柄な身体をややしならせ大きく伸びをする。そうして気の抜けたような息を吐くと、そのまま目を瞑り背もたれに身体を預けた。随分疲れているようだ、近付いてその顔を窺えば、目元には薄らとクマが出来ている。
触れようと手を伸ばして、直前でそのまま指を掌の中に握り込んだ。物にも人にも、触れられなくても何の問題は無い、そもそも姿が見えないのに感触だけ伝わったのなら、それこそ伝えられる怪談話のように不気味な事この上ないだろう。
それでもこの男にだけは、触れられないのだと知りたくなかった。触れなければ、触れられないのだと気付かなくて済む。ゆっくり腕を戻し、間違っても接触の無いよう距離を取った。

「瑠夏」
「…………」

眠ってしまったのだろうか、仮眠をとるにしてもそれならばきちんとベッドで眠った方が良い。これでは余計に疲れてしまうだろう、身体が楽を出来ない状況で眠っても、起きた時身体の重さにうんざりするだけなのだから。尤も俺もベッドで眠る心地良さを、それ程多くは知らないのだが。
疲れ切ってベッドに沈んでいく感覚、シーツの生温かさもさほど気にならず、落ちかける意識の中で自分の髪を撫でる大きな掌、慣れないそれも、眠い事を理由にそのままにしていた。少しだけそのまどろみを長くして、眠りに落ちる時間が何よりも好きだった。
このまま、この瞬間を覚えたまま死んでしまえれば何より幸福だろうと、馬鹿らしい夢を見る程に。

「瑠夏」

真実を知った時の瑠夏はどんな表情をしていたのだろう、優しい男だ、己の判断を、その後どれほど後悔したのだろう。信じさせる事が出来なかったのは俺の咎なのだから、もっと上手く恨まれて死ぬべきだったのに。
例えば嫉妬に駆られて殺したのだと、そんな愚かな男を演じる事が出来れば瑠夏はいくらか救われただろうか。誤って正しさを踏みにじる事は傷になってしまうだろうから、悪しきを制しただけなのだと、そう瑠夏に思わせる事が出来れば。
苦しませたくも、煩わせたくもない。願うのはあの時間に戻り生きる道を探す事では無く、この男の記憶から消えることだ。

「…………ぇ」
「……?」
「J……J……」

つぅ、と閉じられた瞼の端から一筋の涙が零れる。夢を見ているのだろうか、それほどまでに自分は、この男の中に残ってしまっているのだろうか。
きっと自分の未練は瑠夏だろう、ただ空虚だった自分の存在がどんどんとはっきりしていく、世界に色がついていく。何の音もしない身体の中に、感情の塊を押し込まれる。

「瑠夏……っ」

触らない、触れられない事を知りたくない、それはこの男との完全な決別だ。こうしてその姿を瞳に焼き付けた所で、二度と会える事は無い。
動かないでくれと、目を覚まさないでくれと願いながら椅子の後ろに立ち、瑠夏に触れないように両腕をその力の抜けた身体にまわし男を包む。額を綺麗な金の髪にギリギリまで寄り添わせ、瑠夏の身体をきつく抱き締める代わりに自分の指同士を絡ませ強く握った。
目を瞑り、真っ暗な闇の中に浮かぶ自分たちの姿を近付ける。その涙を拭い、頬を触れ合わせ、速くなってしまったその心音が落ち着くまで深く抱き締める、それはもう、想像の中でしか叶わない事だ。
目を開けば、先程と少しも変わらない瑠夏の姿。抱き締める真似事を始めた時のようにそろりと身体を離すと、当たり前に体温は残っていない。この腕はただ空気に触れていただけで、いくら誤魔化しても俺は、もうその指にすら。

「ん……」

瑠夏が目覚めた気配に、俺はまた数歩身体を離す。流れた涙をぐいと拭いながら瑠夏は立ち上がり、重そうな足取りで寝室へと歩いていった。後ろをついていこうとして、しかし目の前で寝室への扉が閉じられてしまう。
すり抜けようか少しだけ考えて、ドアに背を向けその場に腰を下ろした。眠りは生者に必要なもので、そのための部屋に踏み込む事が果たして許されるのかと、自分の膝を抱え顔を埋め、異質である己を何度も自覚する。

「っ……ぅ……」

耳に、苦しげな瑠夏の声が届いてくる。眠りに落ちるには早すぎる気がしたが、相当疲れていたようだしそうであってもおかしくはない。だが断続的に続くそれは、うなされているというよりは……自慰の時のそれに、似ている。

「はっ……ぁ……」

血などもう巡っていないはずの身体、それでもカッと体温が上がるのを自覚した。耳に届いてくるのは、艶めいた瑠夏の呻きと、時間が経つにつれ強くなる粘着質な音。先程とは違うニュアンスで時折俺の名前が呼ばれ、今すぐにでも瑠夏の元へ寄り添いたくなる。
自慰という行為は、どうしてもこの男には似合わない。そういった時は気まぐれに相手を選び、その瞬間だけは本気の愛を捧げながら抱く事が出来る、それが瑠夏だと思っていたから。
もし今、瑠夏が自分だけで処理をしている理由が先程の夢ならば、自分ならば、歪んでいるとわかっていても泣きそうな程に嬉しい。俺への思いを、他にぶつけないでいてくれるのはきっとこの男の誠意だから。それをずっと守っていてくれるのだとしたら、報われる。
だから俺を求めてくれているのなら、本当は全て差し出したい。この身がアンタの慰めになるならそれこそ、好きに使ってくれて構わないのに。血の通わなくなった身体はきっと同じように熱くはなれないだろうけれど、だからこそ瑠夏に満足だけを与えられる。
触れたい、触れたい、触れたい。瑠夏の体温に触れたい、俺の指先に触れる度に「キミの手は冷たいね」と笑っていた、温めるように包んでくれたその手に、もう一度だけでも。
胸が強く痛む、硝煙と血の匂いが戻ってくる。死んでいるのだと、もうとっくに終わっているのだと、お前は死者なのだとわからせるように。
あぁ、そんなこととっくに知っている。

だからこうして、もう少しだけその存在の傍に立つ事を許してもらえるだろうか。きっとその内消えるだろうから、瑠夏が生きていく世界を、見届けてもいいだろうか。
心音は聞こえない、呼吸の必要すらない、誰にも触れられず、誰にも気付かれない。それでも唯一人望んだ男の姿を、更に深くこの心に刻む猶予を貰ってもいいだろうか。
瑠夏の中から消える事が出来ないのなら、瑠夏が苦しむ時、何度だって俺が寄り添うから。それは決して伝わらないけれど、俺だけは、アンタのその苦しみを知っているから。


どうしようもなく遠い話をしよう。瑠夏がずっと長く生きて、その命を終わらせた時の話だ。その時まで見届ける事が出来たのなら、また会えたその時に初めて伝えてやるから。
アンタの存在だけで、俺の人生は少しも悪いものじゃ無かったと。














ほらJJ、起きてくれ。随分長く待たせてしまったのは悪かったから、目を開けてボクにその変わらない瞳を見せてくれないか?ずっと、何度も夢で会っていたけれど、キミがボクを抱き締めてくれる夢を何度も繰り返し見たけれど、なぁ、薄情者だと思うかい?ボクは少しずつ、キミの姿も声も忘れていってしまった。キミったら写真のひとつも残していないんだから、あったはずのものも、一体いつ処分したんだい?……だからせめて、その存在だけは深く刻み込んだ。
あぁでも、やっぱり少し待ってくれるかい?ボクはキミが知るあの頃より歳をとったし、見たら驚かれるかもしれない。それともキミの目には違う風に映るんだろうか、もしキミの中に残るボクがあの時のままの姿なら、ボクは少しだけ赦された気持ちになるだろうな。
なぁJJ、沢山話したい事がある。謝りたい事も、伝えたい事も、それを話すボクは酷く情けないかもしれないけれど、聞いてくれるかい?



当り前だろうと、伝えて目を開けば困ったように笑う瑠夏の顔。濡れてもいないその頬に触れ拭うような動作をすれば、男は泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。
瑠夏、知らないだろう?ここはどうやら望む限り続くらしい、だから瑠夏の話を聞いて、俺も沢山の話をして、気の済むまで抱き合ったら、
今度は、一緒に。




おわり