優しい世界にたった二人

目覚めは酷く曖昧だった。ずっと前から目が覚めていたような、目が開いただけでまだ脳は起きていないような、ぼやけた視界の先に見えるのは、今では自分の部屋より見慣れてしまった天井だ。
傍に居るはずの男を呼ぼうとしても上手く喉が震えない。腕を動かすのも億劫だ、身体が泥の中に沈んでいるように重く、ようやく指先を動かせる程度にしか自由が利かなかった。

「JJ……? 目が覚めたのかい?」

頭を大きな手が撫でてくる、視界の端に透けるような金色が映り、ゆっくりとその輪郭が鮮明になっていく。それは目覚めてすぐ、俺が名を呼ぼうとした、

「瑠……夏……」
「……声が掠れてる。待って、今水を」

自分の鼓膜にすらギリギリ届いていたような呟きを、それでも瑠夏は聴きとってくれたようで、ベッドサイドに置いてあったビンに入った水をグラスに注ぎ手に持つと、ベッドと俺の背の間に腕を入れ身体を起こしてくれる。
まるで自分の身体ではないようだ、全く力が入らない。今までどうこの身体を自由に制御していたのかすらわからなくなる程に、俺はまともに動けなくなっていた。

「JJ?……辛そうだ、水は?自分で飲めるかい?」
「…………」

言葉を口にするのも難しく、かろうじて小さく首を振り自分の意思を伝える。普段なら意識せずとも持てるそのコップすら、今の俺には自分の許容を遥かに超える程に重たいものに見えていた。
痛ましい表情で俺を覗いていた瑠夏は、「じゃあ、口を開いて」と俺に告げると自分が水を口へ含み、そのまま唇を重ねてくる。舌を差し入れられるがそれはいつものように妖しく蠢く事は無く、俺が噎せないようにか流れ込んでくる水の量を調節しながら、口腔でぬるくなったそれを俺へと移してきた。

「んっ……く……」
「……ん…………まだ、欲しい?」
「……い、い……」
「そう……熱かな、少し体温が高い。身体はだるい?あまりにも辛いようなら医者を、」

コップを置き、空いた手を俺の額に添えるとそうまくし立ててくる瑠夏に、「心配するな」と「医者はいらない」の意味を込めてまた首を振る。喉は水を与えられた事でいくらか楽になったが、それでも長い言葉を話せる気がしなかった。声を出すよりは身体を動かす方がまだ辛くない、俺の意を酌み取ってくれたのか瑠夏は「……いらないって、言うと思ったよ」と苦笑すると労わるような手つきで俺をまたベッドへと寝かせ、肩までしっかりと毛布で覆ってくれる。

「でも、ボクが心配するくらいはいいだろう?それと看病もね、幸いしばらく忙しくは無いし、このままこの部屋で寝ていてくれて構わないよ。合間に様子を見に来てあげるから」

それでは瑠夏に迷惑だろうとも思ったが、声を出すどころか満足に身体も動かせないこの状況で、瑠夏はこれ以上引いてくれはしないだろうとその有無を言わせない表情を見て思った。こんなことならば素直に医者にかかって入院でも何でもした方がまだ迷惑にならなかったのかもしれない、が、今となっては後の祭りだ。
申し訳なさに瑠夏をじっと見つめたまま頷くと、「そんな顔しなくていいよ、ボクが好きでする事なんだから」といつもの人好きのする笑みを見せてくる。
自分がそれほど沢山の言葉を伝えていた訳ではないことはわかっている、それでもこうしていざ満足に思いを言葉に出来ないとなれば酷くもどかしい。ずっとこのままな訳は無い、それでも俺は少しだけ、自分の口下手を後悔していた。




翌日、いつ眠ったのかは定かではないが、それでも目が覚めて太陽が真上にあるような時間ならば明らかに寝すぎだろう。しかし眠っても眠っても、身体は貪欲に睡眠を欲していた。昨日からまったく症状は変わらず、体のだるさも取れない。俺は生活のほぼ全てを瑠夏に任せなくてはいけない状態だった。

「……あぁ、目が覚めたんだね。具合はどうだい?少しは動けそう?」
「…………」

僅かに首を傾け声のした方を見れば、瑠夏がこちらへ向かって歩いてきている所だった。手には雑炊か、粥か、小ぶりの鍋とお椀、それにレンゲがのせられたお盆を抱えている。どうやら昼食を作ってきてくれたらしい、「眠っていたら起こすのが申し訳なかったから、丁度よかったよ」とやわらかく微笑みながらベッドに腰掛けた瑠夏は、お盆を置くと俺の身体を起こしながら額の髪をどけ、優しく髪を撫でてきた。

「熱は下がっているんだけれどね……疲れが出たのかな」
「悪……い……」
「気にするなって言っただろう?病人なんだから、もっと甘えてくれていいんだよ」

病気じゃない時も甘えて欲しいんだけどね、などと少し悪戯っぽく微笑みながら口にする瑠夏に、俺の口元にも自然と笑みが浮かぶ。こうして瑠夏にほぼ付きっきりで看てもらうことに罪悪感を覚えつつも、仄かに湧き上がる嬉しさは隠せない。

「ご飯を食べたら薬を飲もうか……とはいっても、風邪じゃないなら意味があるかわからないけど……飲まないよりはましだろうしね」

そう言って瑠夏は、医者に処方してもらったという薬の入った紙袋を棚から取り出す。診察もしないで薬など出してもらえるのかと疑問だったが、俺が医者を嫌がったので症状だけ伝え無理を言って出してもらったらしい。
症状としては風邪に似ているので医者もそう判断したようだが、風邪にしては他の症状がやたらに目立ち過ぎな気がしていた。昨日こそ熱が出ていたがそれも夜には引いており、咳や喉の痛みが酷いわけでもない。ただ自分の意思で身体を動かす事もままならない程に重いだるさがあるというだけで。

「はいJJ、あーん」
「…………」
「ほら恥ずかしがってないで、これも看病の内なんだから」

楽しげにそんなもっともらしい事を言われても説得力の欠片も無い、確かに自力で食事を摂れないのだから必要な事だが、わかっていてもその状況を瑠夏が楽しんでいるのは一目瞭然だった。俺は少しだけ抵抗するように口を閉ざしていたが、充分に冷まされた粥が救われたレンゲの先で唇をツンツンとつつかれ、諦めて口を開く。

「ふふ、いい子だね。沢山食べて、早く治さないと」
「……ん……」

確かに、いつまでもこうして瑠夏に世話してもらうのは本意じゃない。いくら今の時期は忙しくないといっても、組織のトップである瑠夏の元には何かと急な仕事が飛び込んでくる。俺の看病のために時間を割く分、きっと無理をしてくれているのだろうと思うと、何度も差し出されるレンゲの中身を胃に流し込みながら、俺の心には申し訳なさばかりが募った。

「薬を飲んだら、また眠るといい。どうやら眠くなる成分が入っているみたいだから、きっとよく眠れるよ」
「あぁ……そう、する……」

どうりでやたらに眠いと思った、身体を休めるためそういった成分が入っているんだろうが、こうも寝てばかりではすぐ体が鈍ってしまいそうだ。動けるようになるまで後どのくらいかかるだろうか、昨日よりはいくらかマシになったとはいえ、未だに自分では水の入ったコップすら持てない。
薬を舌の上に載せられると、次いでコップの縁が唇に触れる。瑠夏の手がゆっくりとそれを傾ければ、少しずつ中の水が流れ込んできた。舌の上に少しだけ残る苦み、それはまるで痺れのような感覚を生む。全て飲み込んだのを見て瑠夏はまた俺の頭を撫でると、そっとベッドへと寝かせてくれた。毛布に包まれながら瑠夏の手が何度も優しく髪を撫でる、自然と瞼が下がり、視界と共に意識も闇へと落ちていった。




それから何日かは、食べる時以外をほとんど眠って過ごしていた。毎日瑠夏が身体を拭き、桶に汲んだお湯で髪を洗われる。状況が違うとはいえ、二人で風呂に入るとなったときに手を出してくるのがこの男の恒例行事のようなものだったが、今は俺の身体を気遣ってかそうする様子は無く、ただ丁寧に優しく、慈しむように瑠夏は俺の身体に触れた。
身体を拭かれ服を着せられてから、このままじゃ本当に風邪をひいちゃうからねとドライヤーで髪を乾かされようやくベッドへ戻れる。自分で動いているわけでもないが、それでも身体は疲弊した。俺は本当にどうしてしまったのだろう、今日でもう、一週間以上過ぎているというのに症状はこれ以上の回復を見せない。

「疲れたかい?少し眠るといい、ボクも仕事に戻るよ。でも何かあったらすぐ、そこの内線でボクを呼ぶ事。いいね?」
「わか……った」

瑠夏は最後まで心配そうに俺の顔を覗いていたが、それでも俺が頷いたのを見て名残惜しげに部屋を出て行った。寝返りをうつくらいのことは何とか出来る、それ程力を加える事じゃなければ多少なら腕も動かせる、それでもまだ長く話す事は辛く、少しでも重いものは掴む事も出来ない。ぎゅうと目を瞑り、せめて眠ろうとする。眠れば身体は回復する、薬も症状に沿ったものが処方されているのだからその内効いてくるはずだ。
それでも胸の内に宿ってしまった不安は消えなかった、意識は落ちる寸前のようにぼやけているのに、吐きそうな程の焦りがすんでの所で意識を引き戻してくる。

「っ……」

眠れない事は辛い、嫌でも自分の状態を考えさせてくるからだ。このまま治らないはずは無いと、信じたくとも満足に動かない手足に碌に感謝伝えられない喉、いっそあっさりと死んでしまえればこんな焦りや不安に苛まれずとも済むのに。
瑠夏に、必要以上の負担をかけずに、済むのに。

「……ん……っ……?」

瑠夏の事を考えた途端、身体がじわりと熱を持った。口から吐く息は熱く、動かすと辛いばかりだというのに、それでも捩らずにはいられない程全身が疼く。まさか欲情でもしたというのか、確かに俺がこうなってから瑠夏と抱き合ってはいなかったが、それでもこんな突然に、しかもただ瑠夏の事を考えただけで。

「く……ぅ……っ」

熱が一ヶ所に集まるのを感じる、瑠夏は隣の部屋で仕事をしているはずだ、俺の看病に時間を割く分その密度はいつもの比ではないだろう。全ては俺を心配しての事だ、だからこんなこと、するべきではないのに。
そう思っても衝動は抑えられなかった、ゆっくりと手を下腹部へ伸ばすと、満足に動かない両手で何とかスラックスと下着をずらす。そしてすでに勃ち上がっているものに触れれば、それだけで背筋がぞくぞくと痺れた。

「あ……っ、ふ……」

力の入らない手で昂ぶりを包み、時間をかけて上下に擦る。そんなまどろっこしい動きでもすぐに達してしまいそうな程そこは敏感に反応を返し、手の中で固さを増していった。すぐに漏れだした先走りが手を濡らし、それを塗りつけるようにして手を動かすと白く溶けるような官能が全身を支配する。
足の先が何度も跳ねる、あまりに強すぎる快感に、俺は自分でも気付かない内に射精していた。

「っ、あ……何、で……」

吐き出したはずの昂ぶりは、未だに固さを保ったままだ。全身を襲う熱も引く気配を見せない、快楽に溺れていくように手を動かし、二度、三度と下腹部をベトベトに汚しながら絶頂を迎えたが、一向に欲が冷める気配は無い。息を乱しながらまた手の動きを再開しようとする、と、

「JJ」

突然鼓膜を揺らした自分以外の声に、俺はそれが誰のものなのか認識することが出来なかった。耳鳴りのような感覚が過ぎ、頭が答えを出すより早く心臓はうるさく鳴りだす。
そむけたままでいたくなる視線を、それでもノロノロとその声の主へ向けた。黄金の鬣のようなそれが視界に入った瞬間、俺は今すぐに消えてしまいたくなる。
ギシリと、ベッドへ片腕をのせながら俺を覗きこんでくる、瑠夏に、自分をこれ以上見られないために。

「何かあったら呼んでって、言っただろう」
「瑠……夏……これ、は……」
「いいよ、話すのも辛いだろう?まずはキミを落ち着かせてからね」
「っ、な……!」

薄く微笑みながら瑠夏は勢いよく毛布を剥ぎ取ると、俺のドロドロになった下腹部をじっと見つめてくる。ぐちゃぐちゃな思考の中で優先された羞恥に視線を逸らすがスプリングを軋ませながら覆い被さってきた瑠夏に顎を掴まれ、無理矢理視線を合わされるとそのまま深く口付けられた。

「んっ……ふ、ぁ……っ」
「っ……ぅ、ん……」

瑠夏の舌が俺の口腔を這い回る、歯列をなぞりねっとりと舌同士を絡ませ、唾液が粘つく音を立てやたらに鼓膜を刺激する。逆の手が服の中へ潜り込み、触られる前から尖っていた突起を指先で捏ね回した。甘い痺れが下肢へ落ちていき、またすぐにでも達してしまいそうに身体は昂ぶっていく。

「っ、う……んっ……!?」
「……駄ぁ目、我慢して。普通にイくんじゃ、それは治まらないよ」

突起を弄っていた手が下へと滑り、触れようとしていた俺の手をどけると根元をぎゅっと握ってきた。射精感が逆流するように内へと戻っていき、暴れたくなる程の苦しさと快楽を与えてくる。
それでも強く抵抗は出来ない、瑠夏の手をどける事もその身体を押し返す事も、今の状態では不可能なことだ。顎に添えられていた手が離れると今度はそれが胸の突起を弄り始め、俺は戯れに下肢で蠢く手と胸に与えられる刺激に耐える事しか出来なかった。

「や、ぁ……瑠夏……っ、どう、にか……してくれ……っ」
「大丈夫だよJJ、ボクが全部してあげるから、素直に感じて」
「ひ、ぁ……っ!」

服が完全に捲くり上げられ、指で弄っているのとは逆の突起へ瑠夏の舌が触れる。同時に与えられる刺激に増していく快楽を、それでも俺を気持ち良くしてくれる瑠夏の手が止めていて吐き出す事は出来なかった。

「あぅ……っ、あ、も……!」
「……ん、もっとじっくり愛してあげたいけど、ボクもちょっと余裕がないみたいだ」

そう言って胸に触れていた手を離し、今度はその指が後孔へと滑る。そこは何度も吐き出したものですでに濡れており、それを中に押し込むように何度も浅く抜き挿ししながら、徐々に拡げられていった。そうしてぬるりと滑るように深く入り込んできた指を、待ち侘びた内部がきつく締め付ける。

「あっ、く……はぁ……っ」
「すごい、きゅうきゅう締め付けてくるよ……よっぱど待ち切れないみたいだね」

中の弱い部分を瑠夏の指が掠める度、俺の身体は勝手にそれを締め付けてしまった。指が増やされる程にたまらなくなり、もっと強く中を突いて欲しいと、開きっぱなしの口からは餌を前にした犬のように涎が垂れていく。

「瑠夏……っ早、く……!」
「あぁ、そんな風にねだられたら止まらなくなるじゃないか……可愛いよ、JJ」

ベトベトにした俺の口元を舌でなぞりながら、恍惚とした表情でそう囁いた瑠夏は金属音を鳴らしながらベルトを外し、前をくつろげた。すっかり張り詰めている己のものを取り出すと緩く擦ってから俺の腰を高く抱え上げ、潤んだ後孔にそれを触れさせる。
ぞくぞくと背筋を這う感覚だけでおかしくなりそうだ、シーツに落ちた両手でその身体にしがみつきたくとも、腕を上げ続けている事は出来そうになかった。もどかしさばかりが募る、瑠夏の体温に触れるためには瑠夏から触れてもらわなくてはいけないこの状況に、己の不調を呪う。

「そんな顔をしないでJJ……キミが気に病む事は何もない」
「っ……瑠夏……」
「二度と治らなくても、ボクはキミを見捨てたりしない。一生、ね……っ」
「――っあ……!」

体重をかけるようにして瑠夏が圧し掛かってくると、後孔に触れていたものが一気に深く入り込んできた。俺にかけてくる言葉にはどこか余裕があったように思ったが、実際瑠夏も我慢の限界だったらしくそのまま激しく何度も腰を打ちつけてくる。
中の粘膜が擦れ合う、入り込む時は奥の深いところまでを強く突かれ、抜けていく時は浅い箇所の弱い部分を掠められ、喉が枯れるのも構わず俺は喘ぎ続けた。俺の声を聞く度に瑠夏が興奮するのがわかり、ならばせめてと羞恥を捨てる。涙でぼやける視界、それでも瑠夏が嬉しそうに笑っているのがわかった。涙を拭えばもっとはっきりとその表情は見えるだろうが、今の俺にはまともに涙を拭うことすら難しい。

「瑠、夏……っあ、あ……イき、たい……っ」
「ここまで我慢したんだ、折角なら、っ、一緒に、ね?」
「あぁっ……! っ、ひ、ぅ……!」

腹の奥を何度も突いてくる瑠夏の焼けそうな熱を感じながら、意識は朦朧としていく。積み重なった快楽はとっくに弾けているようにも、限界を超えて膨らんでいるようにも思えた。苦しいはずのそれは、いつの間にか被虐的な官能を生み精神を更に昂ぶらせている。
瑠夏の言葉がまるで水の膜を通したようにぼやけて聞こえ、それでも長くせき止められていた昂ぶりからようやく手が離された感覚だけは鮮明に伝わってきた。すぐせり上がってきたものを阻むものはもう、無い。

「あっ、あぁあ……っ!」
「っ、く……!」

頭が真っ白く痺れるような射精感に瑠夏のものをきつく締め付けながら、それでも肉を割り奥深く入り込んできたそれは中へ熱を注ぐ。内壁がその熱を受けて弱く収縮するのがわかる、ずるりと瑠夏のものが抜けていった感覚を最後に、俺の意識はあっけなく途切れた。






違和感に気付いたのは、それからまた数日経っての事だった。時折襲う身体の熱を瑠夏に宥めてもらいながら、相変わらず俺はベッドから動けないまま過ごしている。段々と焦りが麻痺していくのが自分でもわかり、しかしどうする事も出来ない。
食事と薬を与えられ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる瑠夏に身を任せる以外に術は無いのだ。しかし本当に僅かではあったが、徐々に体の自由が利くようになっていくのを感じる。ようやく薬が効いてきたのだろうか、そこではた、と、ここ数日の事を思い出した。

違う、食事は同じように食べさせてもらっていたが、その後薬は飲んでいただろうか?一日前、二日前、遡る時間が増える程に記憶は曖昧になっていくが、それでもそう、
あの日、身体に別の異変を感じた日から、薬は飲んでいないのではなかったか。
どうして気付かなかったのかといえば、それ以上に気になる事があったからだ。唐突に襲い来る熱と疼き、最初こそ瑠夏の事を考えた為かと思っていたが、眠っていた最中に起こる事もあった。
回数は日に日に減っていき、今日はまだ一度も起こっていない。それは身体の回復と同じように進んでいるのではないか。
薬を飲むのを止めた、その日から。

「……う……」

ぞくりと悪寒が走る、今すぐ瑠夏を呼んでこの馬鹿らしい想像を打ち消して欲しい、治ってきてよかったと、薬を飲むのを止めたことなど関係が無いと俺に錯覚させて欲しい。そうでなくては、想像はこのまま恐ろしいところまで落ちてしまう。
薬を持ってきたのは、瑠夏だ。医者に処方させたと言って、食事の後は欠かさず俺へ服用させた。飲むとすぐに眠くなり、起きても身体は少しも楽になってはいない。最初に不調を感じてからもう何日、何週間……もしかすると、ひと月は優に過ぎてしまっているのではないだろうか。ここにはカレンダーも時計も無い、ほとんど眠ってばかりいるせいか、日が過ぎる感覚はとても曖昧だ。
ああそれに、そうだおかしいことがあるじゃないか。瑠夏が居る時以外いつも部屋は暗い、いつ目を覚ましても真っ暗な部屋以外を見ていない。ベッドの向こうにはカーテンの閉じられた窓がある、心臓が痛いくらいに鳴っていた、気付いてしまえば戻れない事に、俺は今から気付こうとしている。
だっておかしいじゃないか、俺は最初、身体がまともに動かなくなったあの日から、
カーテンの隙間から漏れる光すら、見た事が無い。

「っ……!!」

少しだけ自由の利くようになった手足を動かし、床に身体をぶつけながらも身体をベッドから下ろすとそのまま這いずるように窓へと向かう。カーテンを開けてみればいい、何がおかしいのか、それで全てわかるはずだ。
ここは瑠夏の寝室だ、隣では瑠夏が俺の看病に時間を使っているせいで仕事に追われていて、その更に先の廊下に出れば、キングシーザーの家族達が各々生活している。
見舞いに来ないのは瑠夏が気を遣ってくれているからだろう、俺が弱っている姿を見せるのを嫌うから。
すぐ隣の瑠夏の仕事部屋から誰の声も聞こえた事が無いのは、俺の眠りを邪魔しないようにと人が来る度外に出てくれているからで、
俺は本当に、毎日目を覚ましていたのだろうか。丸一日目を覚まさない日があって、そうなれば、そうすることが出来れば、瑠夏がここに居ない日があっても俺にはわからないだろう。
今の俺には現在時刻すらわからない、与えられたのは瑠夏にしか通じない子機だけで、液晶には時間すら表示されないのだから。

「っ……は……」

答えを、振り払いたくて必死だった。それはおそらく正解で、反吐が出そうな程に残酷な真実。


「何をしてるんだい、JJ」
「――っ!!」

音も無く、瑠夏が寝室のドアを背に立っていた。閉じられたドアの向こうの景色は見えない、そしてここまで近付いても、カーテンの隙間からは何の光も漏れていなかった。夜だとしても真っ暗ではない、月の光、街頭、ぼんやりとした明るさが漏れていたっておかしくは無いのに。
どうして気付かなかったのだろう、きっと気付きたくなかったからだ。瑠夏は純粋に俺を心配してくれていて、治る事を願ってくれていて、だからこそ過剰なまでに世話を焼いてくれるのだと。
何日経っても治らない不調、いつもの瑠夏なら、無理矢理にでも俺を病院へ連れていくはずだ。しかし瑠夏は薬を飲ませるばかりで、俺を医者に診せようとはしなかった。

「おとなしくしていなきゃ、治るものも治らないだろう?」
「瑠、夏……教えて、くれ……ここは……」

どこなんだ?縋るような瞳でそう問いかけた俺を見て、瑠夏は静かに笑う。どうしてこの状況で笑うんだ、俺の状態を見て、床に這いつくばってここまで移動してきた俺に向かって、どうしてそんな穏やかな笑みを見せられるんだ。

「ここって、おかしなことを聞くねJJ、ここはボクの寝室だよ」
「違、う、そういう、事を……っ、聞いて、いるんじゃない」

長く話そうとすると息が上がる、これも俺が瑠夏を信じ切っていた原因かもしれない。疑念を抱けば聞かずにはいられない、しかし長く話そうとすれば辛く、そうまでして瑠夏を疑う事に意味などないだろうと、俺は無意識の内にその思考を消していたのだろう。

「とにかく、ベッドへ戻ろう。あぁほら無茶をするから、腕や脚、ぶつけたんだろう?赤くなっているじゃないか」
「瑠夏……話、を……っ」

有無を言わさず俺を抱きあげると、あれだけ苦労して這いずってきた道のりを瑠夏は簡単に戻っていき、いつものようにそっとベッドへ寝かせた。
逃げられない、俺は全てを瑠夏に頼ることでしか生きていけないのだ。それをずっと時間をかけて、教え込まれたのだから。

「もうこんな無茶はしちゃ駄目だよ、ボクはキミの腕も、脚も、とても愛しく想っているんだから」
「頼む、瑠夏……俺の問いに、答えて、くれ……」

ズボンが脱がされ、剥きだしになった脚へ瑠夏は執拗に口付けを落としていく、指先、くるぶし、脛、ふくらはぎ、膝、太股。そうして次に上の服も脱がせると、同じように腕へも口付けていく。指の関節の一つ一つ、掌、手首、肘、二の腕、余すとこ無く唇を触れさせた瑠夏は、俺の鼓動を聞くように胸へ頬を擦り寄せる。

「だから、ね。切り落としたりなんて、ボクは出来ればしたくないから」

何を言われたのか、一瞬理解が出来なかった。愛の言葉を囁くように、胸焼けしそうな程に甘い声で、瑠夏は何を言った?身体の硬直が解けた瞬間、どっと汗が噴き出るのがわかった。本能的な恐怖、危険だと鳴らす警鐘がやたら頭に響く。

「指先も爪も、髪のひとつまで慈しみたい。ボクの手で、唇で愛してあげたい。JJなら、わかってくれるだろう?」

胸から顔を上げ、俺の瞳を覗きこみながらそう問いかけてくる男に、俺は首をどちらに振る事も出来ない。日常が静かに終わっていく、いやとっくに終わっていたのか、ただ恐ろしいのは、目の前で笑っているこの男が、今日まで俺にそれを気付かせもしなかったという事実。
唇同士が触れる、瞳はその綺麗な青から少しも離す事が出来ない。軽く触れるだけのキスは何度も繰り返され、そのまま瑠夏は顔中へ同じように唇を落としていく。

「最初は薬の量を間違えたみたいで、少し焦ったよ。ここに運んでから丸3日、キミは目を覚まさなかったんだ、本当に生きた心地がしなかった」

唇は首筋へと降りて行き、きつく吸うようにしてそこに跡を残しているのがわかる。小さな痛みが広がっていく、瑠夏の唇は気まぐれに俺のそれへ戻ってきては深く口付けてきた。満足するとまた身体中に跡を散らしていく、俺はもう、指の一本でも動かす事が恐ろしい。
好きだよ、愛している、もう離さないよ、うわ言のようにそう繰り返しながら、瑠夏は俺へ優しい愛撫を続ける。

「副作用が起こったら、薬の服用を一時的に止めないといけなかったんだ。でも安心してくれ、すぐ副作用の無いものを作らせる。身体の負担も最小限になるようにね」
「っ……あ……」
「あぁでも、夢中でボクを求めるキミは可愛かったよ、ボクの方がどうにかなりそうだった。やっぱりあの作用だけ残してもらおうか、どっちがいい、JJ?」

目の前に居る男の言葉が、言葉として聞こえない。答えを返さない俺を気にすることなく、瑠夏は胸の突起をぐりぐりと指の腹で刺激してくる。触れられれば、身体は反応してしまう。ましてや相手は瑠夏だ、俺が唯一命を懸けたいと思った相手で、奇跡のように想いを通じ合わせる事の出来た、恋人。

「そうだ、さっきの質問だけど……ここは、確かにボク達の住んでいた屋敷じゃないよ。でもここは全く同じに造ってある、だから問題ないだろう?キミはもうこの部屋から出ないんだから」
「う、ぁ……っ、あ……」
「今、霧生へ仕事を引き継いでいるんだ。ボクら二人共、ここからかなり遠い場所の病院にかかって長く療養をしないといけなくなったって、診断書も出してもらってね。キミは先に入院した事になっているから、お別れも言えなくて寂しいかもしれないな。ボクはまだしばらくかかっちゃうけれど、その後は、ずっと二人きりでいられる」
「んっ……あ、ぁ……」
「愛しているよJJ、永遠にキミがボクだけのものだなんて、幸せで死んでしまいそうだ」

感極まったように俺の身体を強く抱き締めると、瑠夏はそのまま首筋に顔を埋めじっと動かなくなる。ぴったりと触れ合った胸同士の間で心音が重なる、呼吸が耳に触れくすぐったい。
前に見ていたものとは違う、けれど記憶の中と寸分違わず一致する天井を見上げながら、
俺はゆっくり、瑠夏の背へ腕を回した。







おわり