潮騒だけが知っている

はぁ、と数えれば二桁に突入していそうな溜息を聞きながら、俺は男のデスクへ分厚いファイルを置いた。それを見て恨みがましい視線が飛んでくるが無視をして終わっただろう書類の束を手に取る。

「ようやく半分ってところか」
「そうだね……はぁ」

また、溜息。このペースだと、一生分の幸せが逃げていってしまうのではないか。そんな馬鹿らしい事を考えながら抱えた書類を別のテーブルへ運び、ソファーに腰掛けてからまたファイリングを続ける。何だかんだと言いながらペンの音や書類を捲る音は止まらず、この分ならば日付が変わる頃には片がつくはずだ。

「……」

瑠夏と俺は、本来ならばバカンスの真っ最中だった。スケジュールを詰め込みどうにかもぎ取った五日間の休暇、海の側どころか海上に建てられたコテージを予約し、二人きりで過ごそうと瑠夏が甘く囁いてきたのは記憶に新しい。
こなせるか怪しい程過密なスケジュールだったにも関わらず、どうやらとっくの前にこのコテージは予約済みだったらしい。そんなギャンブル染みた休暇に、見事男は勝ってみせた。

「んー……」

いや、多少のおまけ……どころか、かなり大きいおまけは付いてきたのだが。瑠夏や俺自身が動かなければいけない仕事は確かに完璧に終わらせていたが、残務処理までは追いつかなかったらしい。
なのでバカンス当日、俺達はうんざりとした表情で大きな段ボールを抱えながらコテージの扉を潜った。明日までに終わらせるという条件付きで許可された五日間の休暇初日は、しかしどうやら仕事漬けで終わってしまいそうだ。

「不甲斐ない恋人で悪いね、JJ」
「……いいから、手を動かせ」

瑠夏だからこそ許される我儘ではあったが、正直屋敷で仕事を済ませてから来てもよかったんじゃないかと、俺は仕事を始めて真っ先に問いかけた。「皆が居る屋敷と君と二人きりのコテージじゃ、仕事の効率が全然違う」と真面目な顔で言い切った男は、確かに今までに類を見ないハイスピードで書類を片付けていく。
普段からその効率でやっていればそもそもここまで仕事は溜まらなかったんじゃないか、というのは野暮だろう、理想論はあくまで理想で、人間はそこまで完璧に出来ていない。
明日の朝、強制的につけられた組織の人間数人へファイリングされた書類を入れた段ボール箱を渡せば、晴れてバカンスは再開だ。流石に本当に二人きりでこんな遠くまで来る訳にもいかず、いざという時の為に数人の部下が近くの宿で待機している。
JJ一人居れば十分だ、という瑠夏の言葉を却下したのは他でもない俺だ。自分は元々護衛として教育された訳ではないから、普段の見慣れた土地ならばともかく、こうした不慣れな場所なら悔しいが俺一人では手に余る。海上のコテージは俺達が止まるここ一つだけで、だからこそ瑠夏はこの場所を選んだのだろうが、開放的な作りの部屋はあまりに無防備すぎた。
瑠夏を守る事を一番に考えるならば、余計な意地やプライドは捨てなければいけない。そこに躊躇する気はないし、瑠夏が、一番傍に置く護衛に俺を選んでくれただけで充分だった。
そう言えばきっと、瑠夏は「護衛としてじゃなく、恋人として傍に居て欲しいんだけどな」とでも反論してくるだろうが。その想像で無意識に口が緩んだ笑みを浮かべてしまい、口元に手をやってから瑠夏に視線を送る。どうやら集中していて俺の方は見ていなかったようだ、ホッと息を吐いてから自分の仕事に一区切りついたのを確認し、瑠夏にコーヒーでも淹れてやろうと立ち上がった。瑠夏は相変わらず俺の行動には気付いていない。

コーヒーメーカーの断末魔にも聞こえる異音に瑠夏が駆け付けたのは、それからすぐのことだった。




「あー……終わった」

すっかり夜も更けた頃、瑠夏がペンを置き身体をぐうと伸ばした。すっかり片付いたデスクの上には、もう書類の束はひとつも残っていない。俺の方も後は今瑠夏が終わらせたばかりの書類数枚をファイルに挟めば済む状態で、それも数分とかからず終わらせた。
つまりこれで、持ち込んだ仕事は全て片付いたという事だ。

「俺の方も、これで終わりだ」
「ありがとう、あーあ、もうすっかり真夜中じゃないか」
「まぁ、まだ四日あるだろう。とりあえず今日は休んで」
「いーや、駄目だ。JJ、今から海で泳ごう」
「は?」

言うや否や、瑠夏は笑顔で近付いてくると俺の腕を掴み、ベランダへと歩いていく。海の真上に建っているこのコテージは、一階にあるベランダの下も勿論海だ。
確かにそのベランダから直接出られるようになってはいるが、時間も時間だ、遊びたいというのならば昼間の方がいいのではないだろうか。昼ならば特に周辺はついてきた部下達が見張っているし、夜よりよっぽど視界も利く。わざわざ危険な時間帯を選ばなくとも時間ならばたっぷりあるというのに。

「おい瑠夏、この時間に外は危険だ」
「大丈夫、この辺りはボクが懇意にしている人のプライベートビーチだし、開けた場所に見えて意外に警備は厳重だ。キミが心配しているような事は、起こらないよ」

話に聞くと、本来ならばこのようなコテージは日本では建てられないらしい。細かい話を聞いてもわからないので大体は聞き流してしまったが、外国の写真で見るようなこうした海上コテージを、法律やその他諸々全て無視して建ててしまえるような人物が管理している土地ならば、確かに滅多な事はないだろうが。
僅かに警戒を緩めた俺に気付いたのか、瑠夏がにっこりと極上の笑みを見せて抱き締めてきた。数時間ぶりに触れた身体は、生温かい夜風の中でもはっきりわかる程に熱い。蘭の香りが鼻腔に満ち、胸に甘苦しい感覚が落ちてくる。

「キミとの時間は、一分一秒だって惜しい。だからこうして、仕事が済んだらすぐキミに触れられるよう無理矢理ここに来たんじゃないか」
「……そうじゃないかと思ってはいたが、アンタは……」
「ん?」

抱擁が緩められ、今度は頬に手が添えられた。月明かりを背に見上げる瑠夏は、まるで自ら光を放っているかのように錯覚するくらい、綺麗だ。近付いてくる彫りの深い端正な顔は、見慣れているはずなのにどうしてか目を逸らしてしまいたくなる。心臓がうるさくて、目を開けていられない。

「案外、馬鹿なんだな」
「ははっ、ボクに向かってそんな口を利くのはキミくらいだよ、JJ」

そっと重なった唇は、風の所為か少し海の味がする。目を閉じれば肉厚な舌が遠慮なく入り込んできて、自らそれに絡ませながら濃厚な口付けを続けた。

「んっ……ふ、ぁん……」
「……ん……」

呼吸をする合間、混ざり合った唾液を飲み込む一瞬すら惜しむようにキスを重ね、内が火照り始めた頃唇が離れていく。完全に寄りかかっていた身体を瑠夏に支えられながら、先程まで自分の口腔を犯していた舌が濡れた唇を舐める様子をぼんやりと眺めた。

「このままキミを抱いてしまうのも捨て難いけど……折角だし夜の海を堪能してからにしようか」
「そこは譲らないのか……っておい、勝手に服を脱がせるなっ」
「ん? あぁそうか水着はまだトランクの中だね、仕方ない、このまま飛び込もう!」
「は? っ、うわっ!」

大きな音を立てながら派手な水飛沫があがる、大の男二人分なのだから海もいい迷惑だろう。体勢を立て直すどころではなく海に引っ張り込まれたせいで爪先から頭までずぶ濡れで、同じ状態の瑠夏は何故か楽しそうに笑った。いや、本人は本当に楽しいんだろうが、俺は濡れた服が纏わりついて気持ち悪い。温暖な気候の土地なので夜でも海は温かく、それが幸いと言えば幸いなのだが。

「アンタは子供か……」
「いいじゃないか、ようやく仕事から解放されたんだ。それに念願の恋人とのバカンスに、はしゃぐなっていう方が無理だよ」

不意打ちの「恋人」という台詞に言葉を詰まらせれば、瑠夏は俺の額にキスを落としてきた。そうして手を繋ぐと、海の中を泳ぐように歩いていく。胸辺りまで浸かる海水を掻きわけ、引っ張られる腕に任せて裸足の爪先で砂を蹴った。やわらかく消えていく感触が不思議な感じだ、そういえば、こうして海で泳ぐ事など初めてかもしれない。

「あはは、気持ち良いなぁ」
「……そうだな」

シチリアへ連れられた時は泳ぐ暇などなかったし、瑠夏自身そういう気分にはなれなかっただろう。浜辺を歩いたくらいで海へは入らなかった、そういえばあの時も夜だったなと思い出し、口を開く。

「瑠夏は、夜の海が好きなのか?」
「え? そうだなぁ、海に限らず夜は好きだよ。昼間は何かと忙しない事が多いし、ゆっくり出来るとなるとやっぱり夜だからね」

どうしてそんな事を? と逆に問いかけられ、隠す事でもないので素直に思い出した内容を話した。それは同時に瑠夏との誓いを喚起させ、あの時感じたくすぐったさまで連れてくる。
誇らしさに、高揚する感情。自分の今までに思いを馳せながら、待つ未来に胸が躍ったのなど初めてだった。瑠夏と共に行く未来に、俺は今こうして生きている。

「JJ」
「なん、ん……」

濡れた手で前髪を掻き上げられ、視線を上げれば塩辛い唇に口付けられた。深くはならず、何度も啄ばむように繰り返されるキスは、瑠夏が無邪気に喜んでいる事を知らせてくる。俺の思い出が嬉しいのか、海で遊んでいるのが楽しいのか、或いはその両方か。
子供のような男だと思う、少しでも早く二人きりになるため仕事を持ち込んでまでバカンスを強行したり、解放されて早々海に飛び込んだり。
瑠夏へ腕を回し自分から口付ければ、ようやくキスが深くなった。

「ふ……ん、う……っ」
「は……JJ、ん……」

濡れた肌にあたる夜風は少しだけ涼しい、冷える程ではないが、それでもそれを理由に瑠夏へ身を寄せた。張り付いた服の向こうに瑠夏の肌の温度、心臓の音はいつもより僅かに速い。

「JJ、コテージへ戻ろうか」
「気が済んだか?」
「いや。ただ、キミを抱きたくて仕方がなくなっただけだ」

耳元へ寄せられた唇から発せられたその囁きは、簡単に身体を昂ぶらせてしまうように甘かった。薄らとした月明かりで見る瑠夏の瞳が、ぎらりと獰猛な光を帯びた気がする。






「っあ、は……んんっ」
「まだ胸だけなのに、そんなにいいのかい?」

濡れた服を全て脱ぎベッドへ上がる、肌に残る海水でシーツを湿らせながらも、肌をまさぐられただけでそれを気にする余裕は無くなってしまった。瑠夏の舌が胸の突起をねぶり、転がされる内にピンと尖ってしまった反応をからかわれる。誰のせいでここまで敏感になったと思っているんだと、膝で瑠夏のものを弱く擦り上げてやった。

「っ……」
「アンタ、だって……俺に触れてるだけで、こんなじゃないか」
「……悪い子だ、滅茶苦茶にして欲しくて言ってるのか?」
「残りの四日間、俺が立てなくてもいいならな」
「それは困るな、キミとしたい事が沢山あるんだ」

内緒話でもしているようにどちらともなく声を潜め、笑い混じりの会話を交わす。それを言われちゃうとなぁ、と悔しそうに微笑んだ瑠夏は、俺の唇を塞ぎながら今度は指で突起を弄り始めた。指の腹で転がされ、尖ったそれを強く押し潰されれば身体が跳ねる。喘ぎは瑠夏のキスに阻まれ、与えられる快感に全身がびりびりと粟立った。
場所が違うからか、屋敷内ではなく俺たち以外誰も居ないコテージでの行為だからか、感覚がいつもより鋭敏になっている気がする。瑠夏の触れる所から、ぐずぐずに蕩けてしまいそうだ。

「JJのも、もう触れて欲しがってる」
「うあっ、あ……!」

瑠夏の昂ぶりが俺のそれに触れ、まとめて握られる。硬く熱いものと瑠夏の手で同時に扱かれ、強すぎる快感に脳が煮えそうになった。は、と吐いた息は熱く、見上げた瑠夏の顔は匂い立つような色香を放って笑っている。頬に落ちてきたのは汗か、それとも髪に残る海水か、わからないが背骨がぞくりと痺れ腰が浮いた。ねだるように押しつけてしまった事に気付いた時には遅く、瑠夏は抽挿の時のように俺のものを昂ぶりで擦り上げてくる。

「あっ!あ、瑠夏……っ!」
「もう、イきそう? いつもより早いんじゃないか?」
「知る、か……っああ、あ……!」
「本当に二人きりだから、感じ方も素直になってるのかな……あぁ、たまらないよJJ……」

薄らと頬を染め、息を乱し、俺の名を呼ぶ瑠夏の声は凶悪なまでに艶っぽい。その声だけで俺は一気に高みへ押し上げられ、シーツを握っていた手に力を込める。

「あああっ……!」

自分の胸や腹に白濁をまき散らしながら果てた俺は、すぐぐったりとシーツへ身を沈めた。しかし荒れた呼吸が戻らないうちに瑠夏に両脚を抱えられ、後孔にぬるりと熱が押し当てられる。

「瑠、夏……待って、くれ……」
「ごめん、慣らす余裕、ないみたいだ……ゆっくり挿れるから」
「っう……く、は……」

先走りと、俺が放ったものを塗りつけていたらしく濡れた瑠夏の昂ぶりは、ゆっくりと俺の中に埋め込まれていった。慣らしてないそこを解すように先端を出し挿れされ、広げるように回されればすぐにそこは瑠夏の形を思い出すように解れていく。
浅い場所を抜き差しされている内にまた俺の身体はすっかり昂ぶってしまい、苦しいのがわかっていても一気に貫いて欲しくて仕方がない。

「んっ、あ……!うぁ……っ」
「……っ……」
「瑠夏……っ瑠夏、も……」

余裕がないと言った瑠夏は、それでも俺を気遣ってか緩やかな動きを続ける。シーツを掴んでいた指を解き瑠夏の背に回すと、腰を押し付けるようにして脚を絡めた。少しだけ深くなった繋がりに、背が仰け反る。

「っは、あ……!」
「ん……っ、大胆、だなぁ、JJ……」
「余裕が、無い、なら……っあ、それらしく、してくれ」
「……全く、ボクのニーノは、時々酷く凶悪になるな」
「ああっ!」

内腿を掴む指の力が強まり、一気に根元までを埋め込まれた。衝撃に苦痛とも快楽ともつかない声を漏らせば、覆い被さってきた瑠夏に噛み付くようなキスをぶつけられる。息が継げない、そのまま激しく中を穿たれ、唇が離れた後でも俺はまともな言葉を発する事が出来なくなっていた。ただ瑠夏にしがみつき、広い寝室に甘ったるい喘ぎを響かせる。

「んあっ!あ、あ……っ!」
「そうだな……四日間、キミとベッドで過ごすのも、っ、悪くは無いかな」
「やっ、ああ!やめ、っ、あっ!」
「キミ次第だ、JJ……頼むからこれ以上、ボクの理性を揺さぶらないで、くれ、よ……っ」
「あああっ!」

二度目の絶頂は、瑠夏とほぼ同じタイミングだった。中を熱い飛沫で濡らされながら、まだ硬さを失っていない男のものに、少なくとも明日一杯は立ち上がれないだろう事を予感する。

「愛してるよ、JJ……残り四日、沢山楽しもうね」

繋がったままキスを落とされ、角度が変わったせいで俺は唇が重なる直前小さく喘ぎを漏らしてしまった。瑠夏がそれを聞き逃した訳もなく、深い口付けの間にまた律動が再開される。
海の匂いに包まれたまま、呆れているはずの俺の口元には、知らず笑みが浮かんでいた。






終わり