それは舌すら痺れるような、
「瑠夏、戻……」
戻ったぞ、という言葉を途中で止める。ドアを開けてすぐ見えたのは、ソファーに横たわり寝息を立てている瑠夏の姿だったから。先程俺がこの部屋を出るまではそのソファーで大量の書類と睨み合っていたはずだが、どうやらお目付け役が居なくなった事で気が抜けたらしい。
音を立てないよう扉を閉め、手に持ったお盆を瑠夏のデスクへと持っていく。ソファー前のテーブルは隙間無く書類がばらまかれている、そうでなくとももし同じ場所に置いて、エスプレッソがたっぷりと注がれているカップを倒したりすれば大惨事だ。
「ん……」
瑠夏がもぞりと動く、俺の気配に気付いたのかとも思ったが、狭いソファーの上で器用に寝返りをうつと僅かに身体を丸めるようにして、また規則的に寝息を立て始めた。どうやら本格的に熟睡しているらしい、俺が席を外していたのはほんの十分二十分の事だったと思うのだが、そういえば瑠夏は寝付きが良かったな、と思い出し、今度は寝室へと向かう。
薄手の毛布を手に取り瑠夏の元へ戻ると、起こさないように気を配りながら穏やかに目を閉じ眠っているその身体へ、そっと毛布をかけた。
「…………んー……」
「……」
そのままソファー前に膝をつき、じっとその寝顔を眺める。ハーフだからだろう、彫りの深い顔立ちに、綺麗に通った鼻筋、やわらかい髪の純粋な金色は眉毛や睫毛も同じで、こうして改めてその端正な容貌を見ていると、方々から誘いをかけられるのもわからなくはない。
しかしそれとその誘いに乗るかは、全くの別物だとは思うが。
「……はぁ」
俺だけだと言ってくれた瑠夏の言葉を疑うつもりはないが、あの思い出すだけで顔から火が出そうな告白の後も、その態度に大きな変化は無かった。手こそ出していないのだろうが、道行く相手やパーティーで声をかけてきた相手の事を「今の子、可愛かったね」などとわざわざ俺に報告してきたりするのだから、この男の根本は少しも揺らいでいないのだと感じられる。
それを言われた時こっちがどんな気持ちになるか、瑠夏はわかっているのだろうか。わかっていないとすれば人の気持ちのわからない愚鈍な男で、わかっていてやっているのならそれより数段悪い悪魔のような男だ。普段の瑠夏を知っていればどちらかというと後者のような気がするので、本当に性質が悪い。
もう一度溜息を吐き、閉じたままの瑠夏の唇にそっと触れる。この唇が誰かに触れるのかと思うだけで俺は苦しくなってしまうのに瑠夏は違うのかと思うと、まだ湯気の立っているデミタスカップをここに押し付けてやろうかとすら考えた。
……まぁ、流石に冗談だが。そもそも全ては俺の想像で、きっと瑠夏は自分なりの形ではあっても、俺に誠実でいてくれる。
「……瑠夏……」
「…………」
「……俺だけ……だからな」
言ってから、寝ている相手に何をしているんだと羞恥に襲われた。振り切るように立ち上がり、ひとまずテーブルの上の書類を纏める。今日はこのまま寝かせてやった方がいいだろう、もうとっくに日付は跨いでいるし、明日も朝から仕事が入っていたはずだ。この書類の確認は珍しく瑠夏が前倒しで始めたものだったので期日はもう少し先だ、明日にでも仕切り直して片付ければいいだろう。
ザッと順番だけを確認し書類を瑠夏の机へ置く代わりに、エスプレッソと甘いものが欲しいとのリクエストで持ってきたティラミスの載ったお盆を、改めてソファー側のテーブルへ置いた。
「んー…………」
匂いに反応したのか、瑠夏がまた身動ぎをして寝返りをうった。動く度に落ちないかと少しハラハラするが、そこは器用に大柄の身体を狭いソファーで転がしている。それにしても一向に起きる気配は無い、俺が持ってきたこれらが無駄になるのは別に問題ないが、ここで寝るよりはベッドへ行くべきだろう。起こすのも忍びないが、流石に呼び掛けて肩を揺すれば起きる、はずだ。寝起き、というか一度眠るとなかなか起きない瑠夏を嫌という程に知っている身としては、このまま寝かせていた方がいいようにも思ってしまう。
……仕事のお目付け役として居てくれと、当の本人に頼まれこうして部屋に呼ばれてはいたが……それが終わった後を少しも期待しなかったかといえば、嘘になる。朝から仕事がある事はわかっていた、わかっていたが、触れたくて仕方が無くなる時は、俺にだってあるのだ。
「……起きるなよ」
喉を震わせないくらいの小声でそう囁くと、ティラミスのクリームを指で掬い、それで瑠夏の唇をなぞる。瑠夏の好みで、ココアパウダーではなくエスプレッソを挽いた粉がかけられたチーズクリームが、人肌の温度で更に柔らかく溶けていった。指に残ったものが垂れてきたので慌てて舐めとれば、僅かな酸味とほろ苦さ、濃いクリームの味が舌の上に残る。甘過ぎ無いこの味は嫌いではない、一個を丸々食べろと言われるのは少し厳しいが、こうして味見程度に口にするのならばむしろ好みだと思えた。
瑠夏の唇から垂れたものも、同じように舌で、塗りつけたものもまとめて掬い取る。ここまでしても起きないのはマフィアのボスとしてどうなのだろう、まぁ、屋敷なので気を抜いていると考えればわからなくもない。
ここで家族として迎えられ、固い床ではなくやわらかなベッドで眠るようになってから、徐々に自分の眠りが深くなっているのに気付いていた。殺し屋として良いか悪いかは別として、この男と家族達に囲まれて生活する中で、自分の心の在り方はゆっくり変わっていったのだろう。
「……まだ……起きるなよ」
仰向けに寝ている瑠夏の胸元へ手を伸ばし、普段から開かれているそこを更に広げた。シャツの前を全て開くとまたティラミスからクリームを掬い、まず鎖骨へ塗り付ける。それでも目を覚まさない瑠夏に、自分の口元が笑みの形に変わるのを自覚しながら指を下へと滑らせた。クリームが無くなればまたティラミスから掬い、特に何を描こうともせず適当に瑠夏の身体へクリームを塗っていく。
満足してから瑠夏の上に跨るようにして乗り、今度は身体中に塗ったそれを丁寧に舐め取る、鎖骨の窪みに落ちたクリームに舌を這わせ、そのまま先程自分が塗った順番の通りになぞっていった。
「ん……っ、く……」
口腔に溜まった唾液ごと濃厚なクリームを飲み込む動作を繰り返していると、段々と陶酔のような感覚が生まれる。軽い悪戯のつもりが、いつの間にかここまでエスカレートしてしまったのだから、きっともっと前から自分はこの男の色気に酔っていたのかもしれない。
眠っていてほんの少し緩んだ口元、時折小さく漏れる声、そこまでの自覚は無かったがどうやらかなり欲求不満だったらしい、その無防備な姿に、気付けばすっかり煽られていた。
「……おい、瑠夏」
「…………」
「……起きているんだろう……いくらアンタでも、ここまで鈍くないはずだ」
「……酷い言い草だなぁ、JJ。キミの悪戯で起きたのに」
ぱちり、と、常ならばあり得ない程にしっかり目が覚めている男の様子に、やはり自分の考えが当たっていたのだと溜息を吐く。例え本当に俺の行為で目が覚めたのだとしても、しばらく寝た振りをしたままその状況を楽しんでいたのだろう。そうでなければ目が覚めてすぐまるでずっと起きていたかのようにして、あっさりと体勢を入れ替えることなど寝起きの悪すぎる瑠夏に出来るわけが無い。
「……いつから起きていたんだ」
「んー……本当にうとうとしていたからはっきりとは言えないけど……最初に目が覚めたのは、こうして」
俺を楽しそうに見下ろしている瑠夏が、クリームを掬っていたのとは違う俺の手を掴み、絡ませるようにして触れながら人差し指を立たせ、自らの唇へと押し当てる。ウィンクを飛ばしてくる余裕があるようなので、もうすっかりいつもの調子らしい。
「キミの細い指が、ボクの唇に触れた時かな」
「……かなり前から起きていたんじゃないか」
恥ずかしさに、掴まれているのとは逆の腕で自分の顔を覆った。それはつまり、聞かれていないと思っていた俺の浮かれた台詞も、しっかり聞かれてしまっていたという事だ。顔が熱い、あんなことやるんじゃなかった、先に出来ないから後悔というんだと、今身に染みてわかる。
「JJ、顔見せて」
「断る」
「ボクは嬉しかったんだよ、照れ臭くて寝た振りをしてしまうくらいに、キミからの言葉が」
瑠夏の唇に押し当てられたままの指先に、ちゅっ、と軽い音が立てられた。次に掌、手首、と順に下っていき、最後顔を覆っている腕に唇が触れてくる。見えていない事で敏感になったのか身体が小さく跳ね、その反応さえ恥ずかしく、諦めて腕をずらし瑠夏に視線を合わせた。
そんなに、嬉しそうな顔をするな。緩みきって、こういった甘い関係に慣れていない俺ですら、自分は愛されているのだとわかってしまうような笑顔で、こっちを見るな。
「その後の行動には少し驚いたけどね、でも何をしてくれるのか楽しみで、起きるタイミングを完全に見失っちゃったんだ」
「アンタはいちいち性質が悪いんだ……ったく」
自由になった両手を瑠夏へと回し、首の後ろで交差させるとぐっと自分へ引き寄せた。「このままするの?」と、とっくにその気だろうくせにわざわざ訪ねてくるその唇を自らの唇で塞ぐと、金の睫毛が影を作るように、瑠夏の瞳が妖しく細められる。
「んっ……う」
「……ふ……」
薄く唇を開けばすぐさま入り込んできた舌を、反対に絡め取るようにすれば瑠夏もようやく本気になったようで、あっという間に形勢は逆転してしまった。まだ少しだけティラミスの味が残る口腔を、瑠夏は味わうようにしてしつこくねぶってくる。
鼻腔を抜けていくのはエスプレッソの香りだろうか、そんなことを考える余裕があったのはその時だけで、肌蹴させられた胸元に手が這わされると、すぐに頭は瑠夏を求める事だけで一杯になってしまった。
「っあ……瑠夏……」
「今度は、ボクがキミにクリームをつけてあげようか?それとも、焦らしてしまった分激しくされたい?」
「んっ、く……好きに、すればいい、だろう……あっ……!」
「そうだね、夜は長いんだ……キミの隅々まで、たっぷり愛してあげるよ。ボクのしたいようにね」
そう言ってテーブルに乗ったティラミスに手を伸ばし、掬ってきたクリームを俺の唇につけるとまた深く唇を合わせてくる。不思議と、先程はそれほど感じなかった甘みが強くなったような気がした。言葉から視線から、何もかも甘い男が触れると、それ自体も甘くなるのだろうか。
ならきっと一番甘くなっているのは自分だろうと、そうだといいと、絡みつくような甘さを飲み下した。
おわり