愛しい誰かに愛してるからさようならまで
焼けつくような痛みも届かなかった僅かな悲しみも、そこではまるで遠い過去の出来事のように思えた。身体の境界線があいまいで、まるで宙に浮いているような感覚。
何故俺はこんな所に居るのだろう、何かとても大切な事があったはずだ。いや、もう終わってしまったのだったか、夢だったのかもしれない、目覚めてぼんやりとした輪郭だけが残るような、思いだそうとすればするほどそれは消えていく。
もし夢だったとすれば、幸せな夢だったように思った。自分の身には過ぎる程の幸福な時間を与えられていたような、そんな甘く優しい夢。
「ん……」
ここはとても静かだ、何も聞こえない無音の世界。暖かくも寒くも無い、瞼を開くのが億劫なくらい居心地の良い空間に、俺はただ身を委ねていた。何も考えなくていい、ただこうして溶けていくのを待っているだけで。
「あぁ、お前はずっとここにいろ」
自分以外の存在を感じなかったそこへ突然声が響いた。聞き覚えがある気がする、しかし、自分の知るものとそれは少し違う。瞼を開けば視界はひどくぼやけており、数度瞬きをしてから声のした方へ視線を向けた。
「なっ……」
「そのまま眠ってしまえば楽だったろうに、難儀な奴だな」
「何だ……どういうことだ、何で、」
「自分が目の前にいるのが不思議か……?だがここが現実じゃない事くらい、わかっているだろう?」
俺が、居る。俺を見下すように冷たい瞳で立っているその男は、鏡で見る自分の姿そのままだった。何が起こっているのか頭はしばらくその状況を理解しようと努めたが、すぐに諦める。この俺とそっくりな男が言うようにここが現実で無いのなら何が起こったって不思議じゃない、身体を起こしてみれば全身の感覚がようやくはっきりと感じられた。
そうして改めて男を見ると、それは間違いなく自分のように感じられる。確認の必要が無い程に、細胞の全て、ひとつの違いすらなく目の前にいるのは俺と同じ存在だ。
「……俺がお前だということも、お前が俺だということも、わかるな?」
「あぁ……わけがわからないがな」
「理屈なんて考えるな、どうせわからない」
「……遠まわしに、馬鹿にされている気がするな」
「流石俺だな、察しが良い」
口角を上げて皮肉めいた表情を浮かべるそいつは確かに自分だが、少しだけ違うようにも感じる。じっとその顔を見上げていると、男は俺と視線を合わせるように膝をついた。どこから地面でどこから空なのかわからない、明るい闇色の世界でお互いの姿だけを目に映す。
「……俺は、知る前のお前だ」
「知る前……?」
「人を殺す事だけが存在理由だった、その手段以外を持たなかった頃の……デスサイズと呼ばれていた、人の命を狩るだけの存在だった頃の、お前だ」
静かに細められた瞳に宿るのは、少しの温かみすらない殺意。心を揺らす事もなく、自分以外の人間を拒絶し生きていた頃の自分は、きっとこんな目をしていたのだろう。
男は、知る前のお前だと言った。俺は何かを知ったのか、僅かな違和感を覚える程にこの頃の自分と今の自分は違うのだろうか。覚えていない、思い出そうとすると余計にそれは暗い中に溶けていく。ふいに浮かんできた感情は焦りだろうか、一瞬目の前に金色がちらついたが、それもすぐに消えてしまった。
「思い出すな」
「……? 何をだ」
「思い出さなくていい……少し話し過ぎた」
男はそう言って視線を逸らし、俺の後ろに回るとこちらへ背中を預けるように座り込む。自分と全く同じ体温が背に触れている、他人と触れ合うのは好まないはずだ、しかし不思議とその温度は心地よかった。心音が揃う、呼吸のタイミングまで同じだ、自分と男の境界線がわからなくなる、このまま眠ってしまえれば、きっと永遠にこの安らかさを覚えていられるのだろう。
「JJ……っ」
自分の声ではない、だから背中を預けているこの男の声でもない。なら誰だろうか、わからないのにそれは酷く懐かしい、もっと呼んで欲しいのに、呼ばれればきっと泣いてしまう気がした。
「聞くな、もう戻れないんだ」
「……どこにだ?」
「知る必要は無い。お前はここに居るんだ、ここにだけ、居ていいんだ」
「ここに、だけ……?」
「俺も居てやる、ずっとお前の傍に。一番お前を知る、誰よりもお前に近い俺が」
男の声を聞く程に頭は霞みがかったようにはっきりとしなくなっていく。こいつがそう言うのなら、俺と同じ存在がそう言うのならそれでいいんじゃないか。雑音のようなそれなど気にせずこの声と体温に身を委ねて眠る、思い出せない記憶に苦しむよりずっといいだろう。
そう思って目を瞑ると、また金色がちらついた。これは何の色だっただろう、日に透けるような綺麗な金、思わず暗闇の中にあるそれに手が伸びる。瞬間離れた温度は、次に全身を包むように触れてきた。
「駄目だ」
「……俺は、忘れている事がある。お前は知っているんだろう?」
「眠ってくれ、頼む……それで全て終わるんだ」
「…………」
大切な事だ、とても大切な事だったはずだ、何も持たなかった俺が唯一焦がれたものだったはずなんだ。綺麗な金色が離れない、何もかも闇に消えていく中で残り続けるそれは、まるで太陽のように綺麗に見える。
「何も無くなれば楽になれる、何も持たなかった頃の俺は……お前は、そんなに苦しむ事も無かった。だから戻ればいい、温度を感じられなくても、生きていられただろう」
男の腕の力が強まった、同時に耳に届く言葉は冷たいのに、蕩けそうな程に甘い。
従えば楽になる、全てこの男に委ね光から目を逸らす事は、本当はきっと難しくないのだろう。俺がそうしたくないだけだ、その気持ちが残る限り、過保護なまでの優しさを受け入れる事が出来ない。
「……そんなに、大切か」
「わからない、ただ、届きそうな場所にある」
自分の、自分と同じ存在であるこの男の腕を振り払えば届く。それなのにこの心地よさを手放す事も出来ない、自分はこんなに弱かっただろうか。こんなに何かを求める気持ちを持っていただろうか、ここに来る前に、何かを求めたのだろうか。
腹の底が濁るような感覚、そうしてすぐ目元に熱が広がっていく。それがどんな感情なのか、それを自覚するより早く目からは涙が零れていった。
「……仕方ないな」
「……? っ、何を……」
「眠らせてやる……諦めさせてやるよ、未練をな」
首の後ろを掴まれたかと思えばそのまま地面に押し倒される、どこからが地面と空の区切りなのかもわからないが、叩きつけるように組み敷かれたにもかかわらず身体のどこにも痛みは無い。
すっかり濁ってしまった意識でもこの後自分が何をされるかくらいはわかる、衣服を緩めていくもう一人の自分の手つきはとても優しいとは言えないが、自分がこういった行為に及ぶ時はきっと同じようにするのだろう。
そんな事があったのかどうかもう、覚えてはいないけれど。
「っ、あ……」
肌に触れられると、ただそれだけで腰が甘く痺れるような快感が走った。抵抗しようか迷い伸ばした手で、そのまま男の服にしがみつく。声で俺の意識を空ろにしていき、その指や舌で身体の感覚が消えていきそうな快楽を与えてくる男、自分なのだから感じる部分などわかりきっているのだろうが、それでもこの敏感さは異常なほどだ。
「優しくは、してやらないからな」
「ひっ……あ、あっ」
「だが、気持ち良いだろう?ここ、少しでも触れたらイきそうになってるぞ」
そう耳元に囁いてきた男は、焦らすようにゆっくりと昂ぶりに手を添える。先から透明な液体を漏らしながらすっかり勃ちあがってしまっているそれは、触れられただけで腰が持っていかれそうな快感に跳ねた。それでもすぐにイかせる気は無いようで、根元をきつく握るとそのまま胸に舌を這わせてくる。
「くっ……あ、手を、離……っ!」
「この方が気持ち良くなる。ん……お前は、右の方が好きだったな」
「止め、あっ……舐め、るなっ」
吐精していないだけで何度か達してしまっているのではないかと錯覚する程に、身体には快楽ばかりが与えられていた。つい掴んでいる腕に爪を立ててしまうが、男は痛みに顔を歪ませることも無く、むしろ楽しげに口角を上げながら俺への愛撫を続ける。
下肢がドロドロに溶けていくような甘い刺激、歯を立てられても乾いた指を窄まりへ挿し込まれても痛みが無い。ただ疼き激しさを求め、腰を揺らしてしまう。
このまま流された方がきっと楽だろう、自分では到底断ち切ることの出来ない形のない未練を、忘れさせてくれるのなら。苦しいんだ、涙はひっきりなしに流れ、快楽に溺れたくても声や消えかけている姿が僅かな理性を呼び起こしてくる。
誰だ、アンタは誰だ。どうしてこんなに俺の心を揺さぶるんだ、もう覚えていないのに。
「自分相手とはいえ、そうも蕩けた顔をされると興奮するな……もっと、」
「うあっ! あ、も……っ」
「ここを深く抉って欲しいか? なぁ、ねだってみろよ」
増やした指が中で曲げられ、感じる場所を乱暴に擦り上げてきた。腹の奥から更に増していく快楽は耐え難く両足を男の腰にまわし、見上げて先をねだる。しかし「ちゃんと口で言うんだな」と指が何度も中を引っ掻き追い詰め、男は俺からの言葉を求めた。
「っ、は……早く、来いよ……あっ、お前も、耐えられないんだろう……っ?」
「あぁ……俺らしい、な」
男は指を抜き両手で俺の腰を掴むと、物足りなさで力が入ったそこに焼けそうな熱をあてがう。そのときばかりは気遣うように中を埋めていくその動きに、ようやく解放されたこともあり熱が急速に迫り上がってきた。
「あっ……あぁあっ!」
「んっ……おい、挿れられただけでイったのか?」
「仕方ない、だろ……っあ、まだ動く、な……っ」
「我慢出来るわけないだろう……お前の快楽は、俺にも伝わってくるんだ」
つまり、こいつも俺が達したのと同じタイミングで達したらしい。強すぎる快楽にそれどころではなかったが、確かに腹の中にどろりとした熱さを感じる。滑りが良くなったのか男の動きはいきなり激しくなり、先程の言葉は俺にも跳ね返ってくるものらしく暴力的な快楽が身を襲ってきた。
「うぁ、あっ、待って、くれ……あぁっ!」
「っ……勿論、俺が感じている快楽も……っ、お前に伝わる、犯されながら犯しているようなものだな」
「駄目、だ、またすぐ……っ、ひ、あ、あ……っ」
奥を突かれる度に、意識が飛びそうな快楽が全身に与えられる。びくんと身体を跳ねさせながら自らの腹の上に白濁を重ねていくと、もう何もかもわからなくなった。自分が何者なのかも消えていく、明るい闇に身体ごと溶けていくように、ここに来た最初の時のように、全てが曖昧になっていく。
「は……あっ……」
「いい、だろう……っ? もっと、よくしてやるから……そのまま……」
「あっ、い、い……もっと…………か」
「んっ……?」
「瑠、夏……もっと……あぁっ!」
「っ……!!」
自分の発した言葉もよく聞こえない、開いた目に映るのは、酷く歪んだ顔をした自分の姿だ。頬に降ってきた生温かいものは何だろうか、「どうしてだ」と、苦しそうな声と共に次から次へと降ってくる。
あぁ、これは涙か。どうして泣くんだ、そんな必要は無いのに。苦しい気持ちが流れ込んでくる、先程まで全く感じる事のなかった痛みが全身に走る、
優しい世界が、崩れていく。
「JJ……目を開けてくれ、JJ……っ」
その言葉に従って目を開きたくても、何故か上手くいかない。喉がひゅうひゅうと鳴る、口の中に広がるこれは血の味か、肺から溢れてくる血に、それでも噎せた苦しさで混濁していた意識が僅かに戻る。
そのままゆっくりと思いだしていく、ドラゴンヘッドの罠に嵌まり、自分が瑠夏に撃たれた事。奇跡のように、こうして別れの時間が許された事。そうして、全身の輪郭がはっきりとする。
「……瑠……夏……」
「JJ……!? あぁお願いだ、そのまま意識を保っていて……すぐ医者に」
開いた目はもうほぼ視力を失っていた。それでも痛いくらいに映り込んでくる金色に、汚れてしまうことも構わず自らの手を伸ばす。あの後何があったのだろう、瑠夏に怪我は無いのだろうか、他の奴らは無事だろうか、しかしもう確認する時間が無い。
だから最後に、これだけ許してくれ。ただ自分の未練を満足させるだけの願いを、叶えさせてくれ。
「っ……JJ……?」
「あぁ……届い、た……」
自分の掌についていた血で汚れても、その金色は少しも見劣りしない。俺が焦がれていた時のように綺麗なままだ。ゆるく掴んでみても、すぐに腕からは力が抜ける。重力のままに落ちていく腕が地面に叩きつけられる音を最後に、瞼も閉じてしまった。
人が最期に感じる事が出来るのは音だけだという、瑠夏の悲痛な声がまだ生きている鼓膜を何度も揺らす、何度も俺の名前を呼ぶ。瑠夏に呼ばれる事が好きだった、だからこれももうすぐ聴こえなくなってしまうのかと思うと悲しい。
未練を叶えたと思っていても、またすぐに次が生まれる。だからあの男は、あの世界で会った自分は、そのまま眠らせようとしたのだろうか。自分のくせに自分に似ず、どうしようもないほどに優しい男だ。
段々と遠くなる声に、俺はただ最後に見る事の出来た金色を思い出す。綺麗な、とても綺麗な色を、
「言っただろう……俺が、ずっと一緒に居てやると」
何かに包まれる、暖かくも寒くも無い、同じ体温のものに。そうして何度も途切れる意識の中で、繰り返し思い出す。
焦がれて仕方なかった、瞳が焼かれそうな光を、
今ではただ、愛しいばかりのその、色を…………
おわり